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結局独りでは生きられない

ぼくが死んだら、ぼくが死んだことをどれだけの人が気づくのだろう。

仮に今自分が死んだら、まず親や親族には連絡がいく。じゃあ、友人は?両親は友人の連絡先どころか、誰と仲良いのかもあまり知らない。スマホのロックの解除の仕方も知らない。じゃあ、スマホの中の友人は、私が死んだことにしばらく、いや、もしかしたら一生気づかないのだろうか。だけど、誰か一人でも私が死んだ事実を知っていれば、数珠繋ぎのようにその情報は広がることができるのだろう。
では、両親もいなくなり、親族もいなくなり、結婚相手も、子どももいなかったら。私が死んだことに誰も気づかない。常に連絡を取り合っている友人がいるわけではないので、しばらく連絡が取れなくても違和感はない。仮に違和感を覚えたとしても、彼らには知る術がない。今時住所なんて交換しないのだから。
自分が死んだことが、誰にも伝わらず死ぬということは、なんて悲しいことなんだろう。死んだことに気づいてももらえない。なんと恐ろしいのだろう。
お葬式で泣かないでほしいと思ってた。私が死んだ時ぐらい笑顔を見せてって。けど、それは、自分の死を大切な人が認知しているという前提条件があるから思える幸せな思考だった。誰にも気づいてもらえず死んだら、誰か一人には泣いてほしいと思うんだもの。

一人でも生きていけると思っていた。でも、独りでは生きていけないみたいだ。

私は、きっと誰かのためにしか生きれない。自分だけのために生きることはできない。
今自分が死なないのは、親がいるから。親の人生を、子どもが自殺をした人生にしてあげたくないから。だから生きていける。
では、親が死んだら。その時、この人のために自分を犠牲にできると思えるほどのパートナーや、子どもがいれば、その人たちのために自分は生きていいけるだろう。でも、もしいなかったら。私は、私のために生きようとは思わないんじゃないか。

”依存”だという人もいるかもしれない。だけど、それともまた違くて。
誰かのために生きるというベースの上でぼくの人生は成り立っている。だから、そのベースがあれば、ぼくは自由になれるし、自分のために生きることができる。
結局ぼくは誰かに生かされている。


死にたいと思って死ぬのではなく、生きたいと思わないから生きない。
こう思って死ぬ人が何人いるのだろう。
死にたいと思わないから死なないだけで、生きたいとは思わない。
こう思って生きる人が何人いるのだろう。


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