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「先生の白い嘘」という透明化された児童虐待

映画版「先生の白い嘘」でインティマシーコーディネーターを監督が拒否した問題が話題になっている。

それについての記事を読んだ女性たちが性被害の深刻さについて声を上げていた。

私は映画を見ていないが、代わりに原作漫画を最後まで読んだ。
正直に言うと、同じ成人女性として恥の塊みたいな漫画だと思った。

この作品を応援する女性とズレを感じたので、ここに記していく。

1、男性と女性、大人と子供の差

まず、この作品を「女性を応援する作品」として認識してはいけないと思う。

なぜなら、この漫画において主人公である女性は男子生徒を加害しているからだ。
加害の定義がわからないなら、性被害で悲劇のヒロインを気取るのは頂けない。

色々言いたいことはあるが、第一に言いたいことは
「成人した女性が未成年の男性を、心の拠り所として救われようとするのは加害である」
ということ。

女性にとって、男性は力があり立場が上かもしれない。
しかし、ソレと同じように子供にとって大人は立場が上である。
それが男性の未成年だとしてもだ。

未成年でも男性なら、成人女性を加害できる力があるんだから例外だろうと言う人もいるかもしれない。
けどソレは社会人としてあまりにも品性が無さ過ぎる。

男子生徒は、自分が主人公の女性と対等の立場であると勘違いし、主人公を助けようとする。
けれど未成年は社会人を助ける力も義務も持ち合わせてない。

主人公は社会人として、大人として、彼に想いを吐き出すことも、肩を貸してもらうことも、絶対にやってはならなかった。

未成年の女子生徒を恋人にする社会人男性を性加害と言う女性がいるのなら、未成年の男性を社会人女性が理想の王子様だと錯覚するのも加害として認識するべきだろう。

未成年の視野の狭さ、無知さ、優しさを利用して、自分が助かろうとする。
未成年を踏み台に、自分の気持ちを整理する。
その愚かさを同じ女性は肯定してはならない。

老若男女全ての立場が違う人間というものは、決して対等になれない。

上記を前提として、何を話し行動するかを取捨選択するのが品性であり、それを理解していないからこそ一向に差別とは何かを言語化できず、私たちは被害者だと曰い、透明化された子供を踏み躙る。

自分がかつて失望した男性という存在と同じ加害行為を未成年に対してしている事実を見ていない。
同じ女性としてこれは恥ずべき状況だ。

ただ声を上げるのは自立した女性ではない。
文句と意見の分別がつかないのなら、それはただのダメ人間だ。

2、いつまでも人間にならない女性と男性

確かに性加害はあるし、男女差別も存在するだろう。
だからと言って、被害者だからさっさと助けてくれと言うのは本当に自立だろうか。

自分たちは男女の前に人間であると言う話をいつになったらするのだろうか。

目の前の女性は、女性である前に人間である。
目の前の男性は、男性である前に人間である。
私は女性である前に、人間である。

辛い思いをして、可哀想な自分の悲しみにいつまで浸っているんだろうか。
いつまで女性というカテゴリーに自我を代行させているのか。

女性である前に、この「先生の白い嘘」という漫画は、

マイナスな感情を詩的で美しいものだと勘違いして、長いものに巻かれるどうしようもなさを風流と言い訳し、最初から自分の足で立って歩く覚悟すらなく、惰性で今まで生きてきた。
自分の尊厳を取り戻す努力すら放棄し、事なかれ主義を美徳し、自分が悪かったのかもしれないと正しいフリをする御託を並べてきた。

そういう最悪な人間を肯定する作品だと私は感じた。

私は女性という性別を受け、生まれた人間として、社会人として、これを許してはならないと思う。
本当にこれが「美しい女性」「立ち上がった女性」だと思うなら、一度考えて欲しい。

男性で傷ついた女性が、男性によって救われるのは、結局男性に依存した女性以外の何者でもない。

女性が強さを、自立を強調するなら、女性としての誇りとはなにか。品性とは何か。己に立てた誓いとは何か。それを語れることから始めて欲しい。

暴力だけが強さだと感じているから、犯されることや殴られることが弱さだと感じているのではないか。

私は男性にいとも容易く殺される可能性がある女性という立場を弱いと思ったことはない。
加害行為とは、未熟さが引き起こした愚行であると知っているからだ。

男性よりちょっと死にやすいだけで、私は私を弱いとは思わない。
私の強さを推し量るのは私しかいないからだ。

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