佐木隆三さんの『身分帳』を読んだ
佐木隆三さんの『身分帳』を読んだ。映画『すばらしき世界』の原作となったノンフィクション小説だ。感想を書こうと思ったが全くうまくいかず、悶々とした末に諦めた。
映画のことを書こうとしたときも、同じようにどんづまった。作品のことを書こうするとうまくいかないのは、私がいちばんに心惹かれているのが作品の中身ではなく、「この作品が作られたその事実そのもの」だからなのだと思う。もちろん、それぞれの作品が素晴らしいのは大前提の上で、である。
『身分帳』には、佐木さんが小説のモデルである田村明義との交流を綴った『行路病死人』が収録されている。タイトルの通り、田村は故郷の福岡で急死してしまうのだが、通夜の時点で遺影の手配がないことに気づいた佐木さんが、遺影の代わりに著書『身分帳』を一冊捧げる場面がある。私にはその場面がとても象徴的に映って、この作品は田村の生き様それ自体、関わりそれ自体なんだな、と痛感した。本当なら、積み重ねられる時間と出来事の中に埋もれて仕方がなかった彼の人生が、佐木さんとのつながりによって書き残され、西川監督の手で映像化されて現代にまで届いているそのことが、彼が知ればどんな顔をするだろうと想像せずにはいられないそのことが、私を突き動かしてやまないのだ。
『すばらしき世界』を見てから、私の世界への態度は少しだけ変わった気がする。作品から伝わる情緒に心揺さぶられたからだというのもあるし、題材となっている「罪を犯したその後」という問題そのものを素通りできなかったからでもある。今まで映画を見て感動したことは何度もあったけれど、関連する題材の映画を探して観たり、原作の小説を読んだり、そういうことはしたことがなかった。テレビやネットで流れるニュースを見る目も変わったし、今まで自分ごとと思っていなかったことに目が留まるようになった。
そこには、出会ってしまったからには無視できない「責任」があるような気がしている。初めて、心地よい意味で「責任」を感じている。responsibilityという言葉が示すとおり、「応えるちから」を試す呼びかけがずっと、私の中に響いている。
たとえば田村のような人間、広く意味を取るとするならば「アウトサイドとされてしまっている人間」の不遇について語るときに、その根源を「社会の不寛容さ」に落ち着けようとするのは違うよな、と思う。たとえば『すばらしき世界』や『身分帳』の世界に自分がいたとして、私は間違いなく田村を白い目で見て遠ざける側の人間だっただろうな、と思うのだ。かなり劇的なきっかけがなければ、近づこうとすらしなかったと思う。理由は怖いからだし、リスキーだからだし、自分の平穏な生活を保つことで精一杯だから、だ。寛容というのは優しさではなく「受け容れて耐える」ことだとすれば、その忍耐を甘んじて行おうとするほど余裕のある人間が、今の世の中そうたくさんいるとは思えない。だとしたらどうやって、少しでもその溝を浅くできるんだろうと、そういうことを考える。
自分がものすごく「グレー」だと思うからこそ、白黒で隔てられてしまう世の中が悲しいと思うし、苛立ちを覚えるし、端緒を掴もうとするのを諦めてはいけない、と思う。思っているだけで、細々と本を読むことくらいしかできていないのが現実だけれど、手を伸ばすことだけはやめずにいよう、と思う。