不思議な力を受け取っている
西川美和監督の『スクリーンが待っている』を読み終えた。映画『すばらしき世界』を企画し撮り上げるまでの日々が綴られたエッセイだ。
映画の原作小説『身分帳』を読んだとき、いちばん最後に、「復刊にあたって」として西川監督の文章が載っていた。十数ページの短いその文章を読んで、一瞬で、このひとの言葉が紛れもなく好きだ、と思った。調べてみると、最新のエッセイは今年の1月に出ていて、映画『すばらしき世界』の製作過程を主に綴ったものだという。これはぜひ読みたいと思って、仕事帰りに駅ビルの本屋に立ち寄って、この本を買った。最近は電子書籍を買ってしまうことも増えていたが、これは紙の本で読みたい、と思った。
読み出すと夢中になった。通勤電車で読み進めていたのだが、面白いので思わず顔がにやけてしまって、「マスクが当然」の昨今の情勢を心底ありがたく思った。面白い、といってももちろん、爆笑、という感じの笑いではなくて、気づいたら片頬だけ歪んじゃってた、みたいな。自省的でアイロニカルだけど愛を描くことは忘れない、ほっと肩の力が抜けていくような笑いだ。
「復刊にあたって」でも触れられていた、映画を撮るために重ねた取材と交渉の数々には、やはりどうしようもなく引き込まれた。モデルとなった殺人犯は天涯孤独で資料も少なく、佐木さんの『身分帳』自体、取材を始めた当時は絶版状態だった。「孤児」とタイトルのつけられた一篇で、次のように書かれている箇所がある。
孤児。この本そのものが、それに思えた。モデルになった当人のみならず、作品それ自体がすでに誰からも忘れられた存在に思え、私は不思議な入れ子構造に巻き込まれた気がした。誰か、この子を知りませんか。
(西川美和『スクリーンが待っている』より)
「誰か、この子を知りませんか。」というこの西川監督の一言が、本を全て読み終えたあともなお、強く頭に残っていた。資料の少なさからくる一旦の諦念と、そこから湧き上がってくる覚悟と、母のような切実さと。この企画の車輪が重たくも動き出したそのときのエネルギーがまさに言い表されている気がして、頭の中で反芻しては胸のあたりがきゅっ、となった。
西川監督は作品やモデルの人物に縁のあった場所、ひとを探し当てては訪ねてゆく。『身分帳』出版当時の編集者、モデルの田村明義が出演したラジオ番組のディレクター、身元引受人の弁護士の妻。主人公の輪郭がだんだんと濃くなって、色がついて、肉をまとって、その表情や仕草が思い浮かぶまでになる、その過程が現実に即して綴られていて、これはこれで立派なひとつの物語だ、と思った。
そのほかにも、これこそがドラマなのではないか、と思う取材や製作過程が、西川監督のなんとも愛さずにはいられない筆致で綴られていて、この本を読み進めていた数週間(読むのが遅い)、この本がほとんど御守りのように機能して、決して明るいだけではない私の日々に、不思議なパワーを与えてくれていたように思う。
私は決して「映画好き」ではない。映画館へ足を運ぶのは年にほんの数回、地元のシネコン以外にはほとんど行ったことがない。その数回でもちろん、鑑賞した映画の素晴らしさに感嘆するのだが、逆に言うと映画のおいしいところだけありがたく受け取って、その映画がどのようにつくられているか、「スクリーン以前」のことはほとんど考えたことがなかった。これどうやって撮ったんだろうすごいなあ、くらいは思ったことがあるかもしれないけれど、それは文字通り思っただけで、どう考えても「他人事」だったのだ。
今回に限っては、「罪を犯したひと」が主人公の小説を、どうして映画化しようと考えたのか、どこまでが原作で描かれたことで、どこからが映画のメッセージなのか(そのラインは限りなくグラデーションに近いのかもしれないけれど)、この作品が作られたバックグラウンドを、どうしても知りたくなった。そして、嬉しいことに、そのための貴重な記録・記憶が、私の手の届くところにあった。
きっとほんの一部に過ぎないにしても、「現場」を垣間見ることができたことで、私が2月のあの日、映画館の一席でジンジャーエールを片手に飲み干した感動が、何かまた別の体験のように、私の中で形を変えつつある。うまくいえないけれど、という言葉を使うのは反則かもしれないけれど、『身分帳』を読み、『スクリーンが待っている』を読むその時ごとに、映画の情景が目の前に映し出されては糧のように力強いものとして私の中で蓄えられていって、また次の"アクション"を起こさずにはいられない心境へと突き動かしてくれるのだ。