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確実に「届いてしまう」時代に思いを発信する難しさ

最近、映画を二作品観に行きました。とても心動かされて、いろいろなことが頭を巡って、日常のふとした瞬間にもそのことを思い出したりしているのですが、一向にその気持ちを文章に書き出せずにいます。

別のnoteでも少し書いたのですが、好きなことや感動したことを言葉にするのって難しい。荷が重いのです。誰かの言葉ではなく自分の言葉で書きたいけれど、書けば書くほど月並みな言い方になって、これって伝わってるのかな、誰かの真似になってないかな、そういうことばかり考えてしまいます。ここに確かにある「好き」や「感動した」は、私にとって唯一無二でとても特別なものなんだけれど、言葉にした瞬間に、えらく平凡な、なんでもないものみたいに見えてしまうのです。

それってでも、誰の眼差しを気にしてそう考えてしまうのかというと、私のばあい圧倒的に「作り手」や「当事者」でした。というのも、昔は必ずしも届かなったであろうイチ市民の小さなつぶやきが、SNSを通じて彼らの元にド直球で届いてしまうからです。たとえばツイッターでは、ある曲についてツイートすると、エゴサーチをしたアーティストの方が直接それを見て、リツイートをしたりいいねをしたりします。これだけ作り手と受け手の距離が縮まったことに、私は未だに慣れていません。リツイート、エゴサーチ、ハッシュタグ、つながるためのツールが発達しまくった世の中で、作り手や当事者の方を目の前にして一体私は何を言えるのかと、途方に暮れてしまうときがあります。

いちばん自分で自分にがっかりするのは、そういうことを意識した結果「自分の言葉」を見失ってしまうこと。もっと現実的な言い方をすると、気に入られようとして「好き」を過剰に大きく見せてしまう。小学校のとき、夏休みの読書感想文の宿題が出て、評価する担任の先生が気に入りそうなこと、自分がそこまで思ってもないようなことを書いていた、あの感じを思い出します。そうすれば当然賞はもらえるけれど、全然嬉しくない。読み手がある程度特定できていると、そこだけに向かって書こうとしてしまう悪い癖があります。そろそろ脱してもいいのになあ。

書くからには、あとで書いたことを後悔するような文章にはもうしたくないな、と思います。何よりも、映画を観たあとに考えたことが、ほかのテレビ番組やネット記事で見聞きしたことにもつながっていく感じもあって、何とかこの自分の中の潮流を言葉にしたいと思うのですが、なかなかそこに至りません。難しい。もやもやしている木曜日の夜です。

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