母の呪い
母は体が弱いくせに無理をするし人を頼れない厄介な人だ。
おまけに、乳ガン治療中。手術も放射線治療も終えて、コロナの影響を受けて抗がん剤治療も休んでいる。普段は、前ほど活動的ではなくなったし、代わりに?五十肩を発症して力は落ちたみたいだけれど、還暦すぎてもまだ30人近くピアノの生徒を抱える現役のピアノ講師をしながら主婦もやっている。
わたしが幼い頃から、ピアノの生徒数はかなり多かった。毎日のように、15時くらいから夕飯まで、そして夕飯を食べたら21時近くまで、たくさんの生徒を教えていた。でもわたしの母なのだから、やはり体はそんなに強くないし、雨で元気なくなるし、台風なんて来たら頭痛が治らないくらいなのだ。
なのに。母は「お願い」とか「断る」っていうスキルのレベルがやばいくらい低い。結果、全部、頼まれてないようなことまで勝手に背負い込んで潰れてしまう。
厄介なのはここからだ。
中学生くらいの杏子は、その日母が寝込んでいるのを心配していた。でも、ゆっくり寝ているのを起こしたら悪いかな、と考えて「そっとしておいた」のだ。母が寝ている和室の廊下を通ったときに声が聞こえた。怒っていた。
「杏子」
はい…、とふすまを開けると、母が言った。
「お加減いかがとかお茶いるとかそういう一言もないの?ほんっとにあんたは、冷たい」
わたしは、頭をまっしろにした。まっしろになった?もう覚えていない。浮かぶすべての弁解や抗議の声を制して、黙って飲み込んで、代わりにこぼした。
「…ごめんなさい」
そうしてわたしは多分その後お茶を入れてお盆にのせて母の枕元に持っていったと思う。あまりにショックで覚えていない。
それから母が体調をくずしてるときは、努めてマメに声かけしたし、寝込むことがあれば、寝てようがお構いなしにふすまを開けて「なにかいるものある?」と聞いたり「具合どう?」と聞いたりするようになった。母に冷たい人だと言われることはわたしにとって破門みたいな恐怖だったから。
もっと小さいときにも言われた。弟はほんとうにやさしい子だったから、「○○(弟)はこんなにやさしいのに杏子は冷たい」と。
はじめの話に戻ろうと思う。母が一昨日の夜あたりから体調を崩している。わたしはその前の3〜4日、鬱でまったく家の手伝いができずに寝て食べて寝るみたいな生活をしていた。わたしの呪われた思考が導いた。「わたしが鬱で寝てて家事も手伝わずにいたから母が無理してしまったんだ、わたしのせいだ」そしてトラウマがわたしを急かす。「声かけた?」「気遣った?」「何か要るか聞いた?」「溜まる洗濯物どうにかしなくていいの?」
わたしだって鬱は抜けたけれども、ほぼ常に気を張っているらしくて微熱が続いている。母が物音を立てると、わたしへのダメ出しなんじゃないかと途端に不安になってしまう。休まらないのだ。
実は昨日、弟一家がわたしの誕生日祝いのために遊びにきてくれたのだ。昨日は朝から母は体調が悪くてほとんどベッドで寝ていた。夕食会も「少し顔を出すだけかもしれない」と言っていた。
なのにニコニコと笑顔で2階から降りてきて孫にご飯を食べさせたり笑ったり、犬と遊んだりしていた。ご飯も食べられないのに、誕生日ケーキを食べたりして。
弟たちが帰った後、母が風邪薬をテーブルに出して飲もうとしていた。「風邪ひいたの?」と尋ねた。母は答えた。
「頭が痛いけど頭痛薬飲んでも効かないからこれ飲むの」
絶句したのと、言うのを諦めたのと、どちらが先でもいいけれど、わたしは何かを彼女に言うことを放棄した。
頭痛が治らないのは他でもない、あなたが無理をし続けるからでしょう。
言いたくても言えなかった。怖かった。「杏子は冷たい」「杏子はわたしの気持ちなんかわかんない」「うるさい」言いたくても言えないまま、だけど消えてもくれないその想いに、脳内の母がいくつもいくつも否定の言葉をかけてくる。そのたびに「これは認知の歪みだ」と自分に言い聞かせて振り払う。
この2日間、いや、実家に来てから細く、ずっと母の動きに対して気を張っていた。それが母が体調を崩すと気の張り方が尋常じゃなくなる。母がトイレに行く行き帰りにわたしの部屋のドアを開けてなにかダメ出しをしやしないかと怯えて過ごした。家の中を見回して母を不快にさせる状況をつくっていないか確認した。犬が吠えれば、本当は相手するのは慣れてないし甘やかされた犬が噛むし言うことを聞かないから嫌なのに、犬を外に連れていっておしっこをさせたり少し遊んだりして。案の定ケージに入るときに犬もストライキを起こし抱き上げようとすれば噛み付かれ、叱りつけながらケージに入れた。そのときにわたしは息子に手をあげたことを思い出して手が震えた。悲しかった。犬をケージに入れながらわたしは泣いていた。「こんなことしたくないんだよ…っ」
わたしは、冷たい人じゃなくて、やさしい人でいたいから。犬であろうと手荒な真似をしたくないんだよ。やさしいままでまるくおさまってほしいんだよ。わたしをやさしくいさせてくれよ。じゃないとママに冷たいって言われちゃうじゃない。
せめて母が「○○やっておいて」「お茶もってきて」と言ってくれれば。もしくは無理をやめて寝込まないで済むくらいの手の抜き方をしてくれれば。とは思うけれど。
祖母の呪いなのだろうと思う。常に先を見て先を読んで相手のために立ち回りなさい。というような呪いでずっと生きてきたのだろう。
母はもう変わるには、長い間生きすぎてると思う。本人が変えようと思うのなら可能かもしれないけれど、わたしに言われて変わることではないのだろう。
わたしが変わらなくてはならないのだろう。それは住環境かもしれない。思考の癖かもしれない。わからないけれど、かなりしんどい。変わらないと病状も悪化しかねない。
倍にして返すくらいの文章を書くよ!!!!!