つれづれ杏子 #004
薄く抉って軽く救う
悲しい歌や悲しい物語が好きだ。
気質、かもしれない。Mだし。
わたしはamazarashiが好きで良く聴くけれど
秋田ひろむの詞は『薄く抉って軽く救う』。
『薄く抉って軽く救う』という表現は同じamazarashiファンの
友人とTwitterで『ジュブナイル』の話をしていたときに
彼からのリプライで受け取った言葉だ。
あまりに衝撃で、それ以降ずっと引き出しに大切にしまって
amazarashiの引き出しを開けるときによくわたしはそれを取り出して
そうだよなぁ…とそれしか言えない感想を毎回つぶやく。
初期の作品は自殺や戦争を題材にしたものも多くある。
中島美嘉さんが歌う『僕が死のうと思ったのは』という
衝撃的なタイトルの曲だって秋田ひろむが提供したものだ。
※ちなみにジュブナイルはわたしの中ではamazarashiの前向きな曲にカテゴライズされる。
その救いようのない悲しみを描かれるのを耳から聴いている時
わたしは大抵穏やかに、癒やしすら感じている。
それがなぜかはわからないけれど、
浅ましい人間であるわたしは手の届かないような深い悲しみに
手が届かないことに安心するんじゃないだろうか。
ああまだあたしだいじょうぶ、そう思えるんじゃないだろうか。
また別の友人は、「陰キャだからamazarashiの冷凍睡眠聴いて微笑んでたりする」とも言った。
わたしはそれにも同意だった。
その友人も敢えて茶化して、ファッションみたいに陰キャという言葉を使ったけれども
考えの深い彼は確かにそういう聴き方をするだろうなと納得した。
振られない彼女の秘密
わたしは出産をすっ飛ばし乳幼児の育児をすっ飛ばし
結婚と同時に二児の母となった。
こどもたちはもう、『うちの子』だ。
だけどわたしは養子縁組していない。
手続きのタイミングを逃し続けているという怠惰な理由もあるけれど
養子縁組をすると、わたしに扶養義務が生じるのと同時に
将来的には働けなくなったわたしを扶養する義務がこどもたちに生じる。
わたしはそれを望んでいない。
それはこどもたちが選ぶもんだと思っている。
実母が産んでくれた命だから、その命について
導きはするしサポートもするけれど
それを「あたしのもの」にするみたいで
それって押し付けがましい感じがして好きじゃない。
こどもたちの結婚式に実母が呼ばれるならそれでいいし
わたしの葬式は頼んだわよと言う気もない。
こどもたちのことは、きっと愛している。
あんまり容易にこの言葉を言いたくないし
おそらく「きっと」とかつけて述べる言葉でもないんだけど
まだわたしの母親としての愛は胸張って愛してるって言えるほど
やることやってない、道半ば、という意識がそうさせてる。
わたしの"愛"についての価値観はけっこう悲しい方に
傾いてるんじゃないかと思うことが時々ある。
たとえばこどもとつないだ手があるとして。
実母もその手をつないでいるとして。
実母が離さないとして。
わたしと実母は共に歩めない。となったら
わたしはこどもの手を放す。
こどもが実母と継母の間で切り裂かれるなんて嫌だからだ。
そしてもしこどもが実母と生きることを選ぶなら、
おう、いいんじゃない。と返事するだけだと思う。
実母と手を放して、わたしのところに来たら、また手を繋ぐ。
そういう心の動きをあたしは愛のひとつだと思って
美しいものとして扱っている。
ある意味、人に執着しない。
というか、人との関係を断つことにあまり躊躇がない。
そちらのほうが善し、と思えば
多少手荒な真似をしても、憎まれてもいいから、
おゆきなさい、と手を放す。
『わたし、付き合った人に振られたこと無いんです』
というのは、きっとわたしが先に振ってしまうから。
忍耐がないのだ、きっと。
そして『手放すあたし』が好きなんだと思う。
たまったもんじゃないな。
歴代の彼氏のみんなに幸あれ。