ふりかえり
読み手に優しくない散文、僕の独白です。
2023年4月30日 10:02 声劇配信アプリ改め小説実況アプリ『ボイコネ』がサービス終了しました。それに伴い少し振り返りたく、という内容です。そしてたぶん”あぷりさん”として何かをこうしてしっかり文字で残すのは最後になると思います。僕も想うところがあって、自分自身の整理だったり、その時感じていたことを正直に書きます。ボイコネ=声劇、だとは皆さん思うのですが、コロナなども重なり僕の場合は単純な声劇とか、そういういちコンテンツ以上のものになっていた時期もありました。自分と向き合うことにも結果的につながりました。だから、余計なこともいろいろ書きます。ほとんどなくなってしまっている自信回復のリハビリのため、ちょっとだけ自分をほめていくスタイルでいきます。
これは完全に偽らざる僕の本心になりますので、きっと今まで皆さんが向けられていた”あぷり”のイメージとはだいぶ違うものになると思いますが最後なので大目に見てください。まあ、自己満足とかいろいろ自分本位ですから、全然読む必要ないですよ、これ。
学生時代、”こえ部”というサイトを見つけ『声劇』にハマりました。オーディオインターフェースという謎の機械を買い、windows XPのデスクトップPCにつなげ、電子の海で台本の読み合わせに明け暮れました。
…が、2011年3月11日 東日本大震災。僕の声劇は一旦そこで終わりを迎えます。いまだに”2011”という年号が目に入ったり耳に入った瞬間、「あ、震災の話だ」と勝手に脳が思い込んで身体が一瞬硬直するくらいの事件でした。もう、世界がめちゃくちゃでした。劇なんて言ってる場合ではありませんでした。そこからいろんなことが戻っていくのに、いやそもそも今も戻っていないことがたくさんあるけれど、かろうじて戻ってきたかなと感じるまでも結構な時間がかかったように感じます。
そこから時間を経て、2020年5月、もはやきっかけは忘れてしまっていて、たしかなにかネットの広告だったと思うのですが、ボイコネを始めました。
…とここまではオフィシャルで僕が結構話していることなんですが、
もうちょい僕自身いろいろくわしく紐解いていくために僕の生立ち(自慢話とかに見えるらしいですがまあ最後だしいいじゃないですか)を書きます。
僕はいわゆる”スーパー小学生”でした。小学校低学年の知能テストで全国2位をとった時、担任の先生から両親が「この子は絶対に田舎を出るべきだと」説得されましたが、僕は地元の自然が大好きでその研究で功績(小学生が功績とか使うの変だけど)を上げたのとその目的意識の高さで、その説得を逆にねじ伏せました。この頃は学研の図鑑1冊を2日で丸暗記できるくらいには頭がよく回りました。多分、ですけど家族や地域のみんなから受け取る私への愛情がものすごくて、お金がたくさんあるお家ではなかったけれど豊かで、何も心配がなくて、いつも安心して好きなことをしていられる環境がそうしたのかなと思っています。お金はない家だけど、はた目からみると一応”田舎のおぼっちゃん”だったはずです。今も第一印象が育ちの良い感じらしいですね、僕もそういうとこが自分で好きなんでこれは関わった大人に感謝してます。
某生き物の研究でなんだか名が轟き、テレビや新聞やメディアの取材依頼が毎日のように来たり、学校を公欠して学会や研究発表会とか行政の環境施策を話し合う会議に出たりとか、大学から招待を受けて講義時間まるまる使った研究発表をしたり(小学生が大学生相手に研究をとつとつと語ってるとか異常ですよね)とか、図鑑の監修をしたりとかそんな幼少時代を過ごしました。まあ、僕の価値観は完全におかしな方向に偏りました。ちなみにここまででまだ小学6年生までの話です、書いてるとすごいな。
メディア出演に対して小学生だった僕がなぜメディアに出るかについて考え、結論を出したメモ(毎日生き物の観察日記を書いていました)にはこんなことが書いてあります
①公共への奉仕
②研究成果や知られざる生き物の生態は世のために認知されるべき
③自分自身が発言力を持つことで今後の可能性につながる
↑はその時の一言一句そのままです。ほんと恐ろしい子ね。
そして大人の世界を表面だけ知った僕は、ある日、ぎょぎょっとする某おさなか研究家さんの講演会に出席し、質疑応答でこんな質問をします
結果、
『薬にも食べ物にも、他技術でも利用できる方法が見つかっていない生き物では研究費用が工面できないからそれだけでは無理。例えば自分みたいにタレントみたいになればあるいはいけるかも、方法を探してみて』ということを言われます。
今でも覚えていますが言われた瞬間、タレントってなんだろうって頭に抽象化した言葉が以下の2つ
・とにかくお話がうまい
・発信力や知名度、影響力に秀でている
加えて、大人の世界でヒトとコトの本質をずっと観察し続けた僕は、
「内容」と「見せ方」というのがあって、例えば
・内容が良いが話し方が下手な学会発表は受け入れられない
・薄っぺらい学術書や教科書も写真とか校正編集で見栄えはするからなんかとりあえずいいことになる
とか、そんなものを感じていましたので、”「タレント」的な方向性で話し方や発信力をさらに強めていけば、この時自分のやりたかった自然や自分の好きな生き物を世間一般に正しく伝える方向に進めるのではないか”と天啓みたいに閃きました。
そこから、僕の演劇活動や人前で話す訓練などが始まりました。それに加えて研究関連も中学卒業までに加速し、なんだかすごいことになります。書くとめっちゃ長いので割愛します。小学校時代より世間ズレが悪化します。
…で、中学3年で人間の自分勝手さに絶望して心が折れます(他人目線で僕の心が折れたことに気づいた方は今までひとりもいませんので、表立って何も変わらなかったようですが、明確に僕の中での優先順位やいろんなことがかわりました、これも割愛)。
すごく厨二っぽいですが、ここで自分の天才性を封印しました。説明になっているようでなっていないように思うのですが『一般的で普通に行動する』ことに頭のメモリの大半を使うようになります。毎秒意識的に”それ”をやるのは結構大変で、覚醒している時間のうち、”無意識”な時間がほぼない、みたいな生活を慣れるまで続けました。慣れないコントローラーでゲームをしている感覚? 意識的に無意識をコントロールするみたいな訓練をずーっとしていたような気がします。この弊害と鍛えられたことは今自分の武器にもなっていますが、まあそんな人間も世界にはいますよねってことでまあこの話は納めときましょう。
高校-大学は自分勝手にあそびました。かなり普通だったので何の問題もおきません。それに、慣れてくるとそんな自分も好きになれて、ストレスもそこまで大きくありませんでした。ここで出会った友達が一番気楽に何でも話せて甘えられる大好きなやつらです。たまーにボランティアとか昔研究していた内容に関する協力依頼があったりとか、そんなのがあればたまに協力する程度。
ただ、卒論(幼少の頃の研究とはまた違う分野)はやってておもしろくなってしまって、ごにょごにょ遊んだら、卒業前にもう一本論文出すことになって学会で面白いことになっちまいました。アカデミックな研究ってアイデア出せる脳とかクリエィティブに強ければ世界のてっぺんに行くのはジャンルによっては簡単だなぁ…とか思い上がったことを考えていたように思います。でも、実際そうだよね?イノベーションできる研究者っていつでも最前線にいられる。まぁ、みんな日本から出て行っちゃったけどね、しーらない(黒
さて、ボイコネ開始直前に話を移します。
僕は10年近く一般的な会社員を続けていました。とはいっても休日に主にお話するのが中小企業の経営者さんだったり、異様に軽いフットワークで変なコネクションや経験(霞が関に登庁して、社会実験の費用使途について3時間くらいの審問を一人で乗り切ったのとか自慢です、捨て石に任命されたのを逆転したのとか最高に気分が良かったです。そういうのや、他社の案件とかコラボ企画とか業務外でも面白そうだなと感じたことをとにかくいっぱいやりました)をずっと積み続けていたので、「変人」ではありましたがそれなりに周りからは受け入れられていました。マインド的には会社員より個人事業主さんみたいな感じに近かったかもしれません。
まあ、ここに書いてないことも社会人になってからいろいろやりました。普通を目指しましたが、何をやっても目立つし出る杭になる性質はどうしようもないことがこのころよくわかっていました。ただ、それでもやっぱり出る杭をたたきたい方はめちゃくちゃ多かったし、自分を利用しようとする方もたくさんいたので、謙虚に、欲がなく、下から出るような姿勢を徹底して、それが自分のイメージになっていました。
自分の生きがいは何かなと考えると、たくさんの方の脳に”僕”が刻み込まれたことかなと感じています。よく建築家が「自分の作ったものが残るのがやりがい」と言いますが、私の場合、自分のやった功績が誰かの脳に刻まれるのがこれと同じです。”役に立って”とかが付随条件としてありますけれど。。。
そんな『いつ寝てるの?』とよく言われる私でしたが、表現に関しても趣味で演劇を続けていました。客演で舞台に上がる機会が何度か。よくそんな余裕あるね、とか言われるけど、やる気と体力の問題なのでやればできます。やりたいならやってみましょう。やればわかるけど全然いけます。
そんな2020年の年明け、とある非常に特殊な裏方のオファーが直接僕にありました。いろいろ顔が広かったので、ご縁を伝ってその話がきたとき、僕は会社でただ一人の広報担当でした。おおざっぱにいうと商業映画への協力。そして「あー、これは世界でただ一人、僕しかできないや」という内容です(笑)。会社を2か月近く空けるためにいい方向がないかを一生懸命考えた結果「私が現場に入る代わりにクレジットや広報ロゴの仕様等もろもろの権利を当社でもいただく(普通は数百万かかる)」ことをプロダクションさんへ条件提示。所属する会社側もメリットが大きいだろうということでwin-winの形を作って話をまとめました。僕の身ひとつでいい仕事ができたたと思います。
撮影が完全に終わったのは2020年3月。コロナが広がり始めた頃でした。
話は飛びますが僕は所属している社長のことをものすごく尊敬しています。広いビジョンを見ることができるのが素晴らしく、あと未来が見えるじゃないかという深い読みをします。ただ、1企業だと、その広いレンジが逆に邪魔をしていて、そこじゃないだろと経営判断などにいつも隣で突っ込みをいれていました。個人的には早く社長職を辞退して議員になって辣腕を奮ってほしいなといつも感じていて、その時は自分を秘書で雇ってくださいとお願いしているくらいには好きだったりします。
そんな社長がまたもや先見性というか、神がかった指示を映画の話を持っていた際、僕に出していました。『撮影現場からリモートで会社業務に対応できるよう仕組を作って遊んでみろ』というものでした。そっち(映画)に集中していいから、余裕があったらでいい、と、緩めの指示だったのですが、僕の真面目な性格が災いして、社内と連絡を頻繁にとりながら仕事をすすめていきました。
コロナウイルス感染症で最初の大きなニュースはクルーズ船、「ダイヤモンドプリンセス号」に関するものではないでしょうか。横浜港で検疫が行われたのが2月3日です。当社のフルリモートに対応するためのネットワークや機械設備側の環境はこの時点で完備され、マニュアル(案a,b,cの3パターン)まで完成していました。各企業が5-7月ごろからオンライン環境を整備し、webカメラやヘッドセットが売り切れ、価格が3倍になる中、当社では全社員に配備完了。会議室に常設されてるowlとか、決裁の時ふざけんなといっていた総務部長が一番今よく使っていておかしいなとよく笑います。
まあ、そういう社長なので、普段は煙たがられますが、最後はなんとかしてくれるとか、守り神的だと会社では尊敬されています。もともとweb周りが整っていた会社さんはもっとすごいですが、まあ、うちの会社も捨てたもんじゃないなぁと思っています。
そんなこんなでコロナ渦に入り、予定されていた舞台や大きなイベントが全て中止。映画と会社でのミッションが達成された僕は単純明快にわかりやすく燃え尽き症候群に陥ります。これは僕が毎日のように『人と会う』ことに使命感や生きがいを感じていて、それを制限されたことにより、何をしていいかわからなくなっていたこともあったのかなと思います。
そこで、ふと、”声劇” ”ボイコネ”という文字が何かで目に留まった…はずです。あー、学生時代にやってたなぁ、みたいな感じで特にやることもなく暇していて、アプリをインストールしてやってみました。
前談がめちゃくちゃながくなりましたが、こっからボイコネにいきます。
ちなみに僕はいろいろがんばっていた(今もそうですが、努力が足りないと毎日のように自分を攻め続けてる悪癖がそうとう強かったりするのであえてそう書かせてください)わけですが、少し頑張る方向を間違えていたようで、兆しはあったものの向き合わないようにしていたことがついに、表面化し、この後人生の転機のようなイベントが訪れることになります。
つづきはまた今晩あたりに。
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