マダラ蝶【1】
山の間に割り込むように流れる青緑色の川。それに沿うようにして車を走らせれば、やがて身を寄せ合うようにして地面を彩る、薄桃色のフジバカマたちが姿を現す。
この雄大な自然に根を生やし、風に身を任せながら咲くその花は、その時期になるとやってくる訪問者たちを優しく迎え入れてくれるのだった。
懐かしさと寂しさを蘇らせるこの土地は、咲希にとって唯一、自分の存在を確かめられる場所だった。ここにはもう、帰省を喜んでくれるような人はひとりも残ってはいなくて、咲希を待っているのは、かつて人が暮らしていた空っぽの建物だけ。
そんな場所で彼という存在に出会ってしまったのは、やはりここが咲希の存在するべき場所なのだと、天が定めたからなのかもしれなかった。
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ガタガタッと建付けの悪い扉を開け、朝倉咲希は朝の新鮮な空気を吸い込んだ。人の住まない空っぽの建物は埃っぽく、しっとりとした空気を身体に纏わせる。
青い空を見上げれば、秋と呼ぶにはまだ少し早いような、それでも夏とは確実にちがう形をした雲が、ゆっくりと時の流れを告げていた。
咲希は自転車にまたがると、家から少し離れたところにある目的地へと出発した。暗い玄関に閉じ込められ、一年ぶりに外出を許された青色の自転車が、開放感を楽しむかのように嬉しそうに回転を始める。
肩を並べるセイタカアワダチソウ。至るところに組まれた稲架。混沌とした都心とはまるで違う、自然の営みが目の前に広がっている。目的地へと向かう途中、咲希は見慣れない薄桃色の景色を見つけて、自転車を止めた。
足元で負けじとピンク色を咲かせるミゾソバたちの横を通り、咲希は吸い寄せられるようにしてその花畑に足を踏み入れる。目の前に突然現れた薄桃色のそれは、どうやらフジバカマのようだった。
風に揺られて表情を変える花々。咲希はカメラを構え、その一瞬を逃すまいと夢中でシャッターを切った。
咲希は写真家として、常に各地を飛び回る日々を送っていた。各地を転々とし、そこで出逢った景色をカメラに収めていく。切り取った景色の数だけ、自分がその瞬間を生きたことを証明できる。そんな生き方は、自分が自分であるための予防線のようなものでもあった。
「きゃっ」
カメラを覗き込んだまま後ろに下がった咲希は、ドンッという衝撃を感じ、慌てて背後を振り返った。
カメラの奥に広がる世界に入り込むあまり、こちら側にある自分以外の存在など微塵も感じてはいなかった。
そういった境地に入り込むことに咲希はもう慣れっこだったが、急に悪夢から覚めるようなあの感覚は、何度体験しても気持ちのいいものとは思えない。
「すみませんでした」
突然現れた男性に向かって、咲希は慌てて頭を下げる。
パーマのかかる茶色い髪。スラックスと白のTシャツに身を包み、羽織られたグレーのシャツは、腕の方まで袖が捲られている。一見若くも見えるニ重の目元には薄っすらと皺が確認でき、洗練されたその雰囲気は、田舎にはどこか不釣り合いなように思えた。
「いえ、こちらこそすみません。実は、いつ声を掛けようか迷っていたんです。ずっと撮っていますよね。僕が知る限りでは、もう三十分近く」
「ずっと見ていらしたんですか」
罪悪感が、一瞬で警戒心へと姿を変える。
「まさか、それは誤解ですよ。三十分ほど前、ここを通ったときにあなたの姿が目に入ったものですから。この先にコーヒー屋があるのをご存知ないですか?」
男は、停められた自転車の方向を指さし、ニコリと笑った。
それから少しして、咲希の前に名刺が差し出される。名刺を受け取った咲希は、小さくその名前を口に出した。
「藤永浩也…さん」
「はじめまして」
名刺には、携帯番号とメールアドレスの他に、「connect」と書かれたウェブメディアのHPアドレスが記載されている。
「朝倉咲希といいます。フリーのカメラマン」
そう言って咲希は、手に持っていたカメラをほんの少し上にあげた。
「今日は仕事でこちらに?」
「…ええ、まあ。それより、この奥にコーヒー屋さんが…?」
「ええ。古民家を改装して、昨年オープンしたんです。よかったらコーヒーを一杯いかがですか。そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。実は僕、そのお店のオーナーをやっているんです」
咲希は少し考えたあと、こくりと静かに頷いた。仕事柄こういった出会いは珍しいことではない。ひょんな出会いが新しい仕事に繋がることもあるし、人脈を広げるチャンスでもある。ここでそういったものを期待する気はなかったが、新しく出来たというそのお店にはいくらか興味をそそられた。
「ただ…、少し寄りたいところがあるので、先に用事を済ませてきてもいいですか?」
咲希の返事を聞いた藤永は、嬉しそうに笑みを浮かべた。
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