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マダラ蝶【2】

 フジバカマの群生地から西へ数分ほど進むと、山を切り開いた土地にいくつものお墓が並んでいる。3年前に亡くなった咲希の祖母も今はここに眠っていて、命日の近いこの時期になると、咲希は必ずこの土地を訪れるのだった。
 咲希は静かに目を閉じると手を合わせ、ただいま、と心の中でつぶやいた。中学校を卒業する半年ほど前、咲希は母方の祖母と暮らし始めた。両親の離婚。それから程なくして、咲希の母は突然自らその命を絶った。母が命を絶ったのもまた、夏が終わり、秋を迎える前のこんな時期だった。
 母も祖母も、咲希には何も言わなかったけれど、咲希を授かったことで結婚したという両親の間には、その頃から少しずつ微妙なズレが生じてしまっていたのかもしれない。咲希を邪魔もののように扱う父と、寂しそうに笑う母の姿。少なくとも父は、咲希の誕生を望んではいなかった気がしていた。
 仕事に忙しかった父は、家でも仕事をしていることの方が多くて、「お父さんに迷惑になるから、静かにしていなさい」というのが母の口癖だった。だからこそ咲希にとっての「家」というのは、今も昔も、父や母と過ごした居場所のない無機質な家ではなく、いつでも優しく咲希を迎え入れてくれる祖母の家だけだった。

 咲希は祖母の横に刻まれた母の名前を見ながら、ふうっと静かに息を吐く。母親の事を思い出すのは年に一度、この瞬間だけと決めている。どれだけの時が経っても、母のことを考えると自分の存在を責めずにはいられなくなってしまうからだ。
「ごめんね」
秋の風が線香の香りをふわりと運んでいく。咲希は眠りにつく二人にくるりと背を向けると、青色の自転車の方へと歩き出した。

♦︎

 藤永の待つカフェは、さらに西へ数分進んだところにあった。道の脇にOPENと書かれた黒板が目に入り、咲希は漕いでいた自転車を止める。お店の前には、白色で「くるみ堂」と書かれた木の看板が立てかけられていた。
「いらっしゃいませ」
 横開きの扉をカラカラッと開けると、女性の優しい声が咲希を出迎えた。
 後ろでひとつに束ねられた綺麗な黒髪と、色白の肌によく映えた小さな赤色のピアスが目を引いた。咲希は小さく頭を下げたあと、キョロキョロと店内を見渡す。
「あの、藤永さんという方はいらっしゃいますか」
女性は少し驚いた様子で目を見開いたあと、こちらへどうぞ、と階段の方へ咲希を案内した。
 玄関に向かって左手の空間が、カフェスペースとなっているらしい。昔ながらの家をそのまま利用したであろう畳の空間。ちらりとそちらに目をやれば、数人のご婦人たちが話に花を咲かせている様子が目に入った。
 女性に案内されるままに階段を登りきった咲希は、二階に広がる光景に驚きを隠せなかった。なぜならそこには、木の温かみに溢れたログハウス調の空間が広がっていたからだ。リノベーションされたその空間の中心には、木目が美しい赤茶色のテーブルが置かれ、壁に沿うようにしてカウンターテーブルと椅子が設置されている。大きくつけられた窓からは、雄大な山々の姿を眺めることができた。

「藤永さん、待ち合わせの方がいらっしゃいましたよ」
女性がそう声を掛けると、藤永はくるりとこちらへ振り向き立ち上がった。
「お待ちしていました」
 テーブルの上にはノートパソコンが開かれている。どうやら二階は、ワーキングスペースとして利用できるらしい。よく見れば、テーブルにはコンセントの差し込み口がいくつも取り付けられていた。彼には田んぼや畑よりも、こういった都会染みた空間がよく似合っていると咲希は思った。
「こんな素敵なお店が出来ていたなんて、驚きました」
咲希は藤永に言葉を返す。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。こちらは、飯山薫いいやまかおるさん。カフェの方は基本的に彼女が運営しているんだ」
「はじめまして。薫って呼んでくださいね」
優しい笑顔が咲希に向けられる。咲希は、肩に掛けられたカメラを薫に見せ、簡単に自己紹介をした。「立ち話もなんですから」という藤永の一言で、咲希はノートパソコンが開かれたテーブルの向かい側の椅子に腰を下ろす。テーブルに置かれたメニューに目を通した咲希は、ブレンドコーヒーを注文した。
「ブレンドですね、しばらくお待ちください」
薫はそう言うと、パタパタと階段を降りていった。

「聞いてもいいかな?」
咲希の返事を待たずして、藤永は言葉を続ける。
「君はこの辺りに土地勘があるよね。本当は、ここの生まれの人なのかな?」
咲希は少し肩をすくめると、観念したように頷いた。
「別に、嘘を言うつもりはなかったんです。実は祖母の家が近くにあって。今日はお墓参りに」
「じゃあ、普段は県外に住んでるの?」
「一応東京に、部屋を借りてます。でも基本的に私、年の半分くらいは各地を転々としてるんです。撮りたいもののある地域に飛んで、ひたすら写真を撮って。季節や天気とにらめっこの生活というか、あまり同じところに長くいることってないかもしれないです」
 咲希は静かに微笑んだ。二人の間にはしばしの沈黙が流れ、咲希はそのまま窓の外に視線を移す。温かみのある空間にいるせいか、藤永の雰囲気がそうさせるのか、初対面であるはずなのに、咲希には不思議とその沈黙が心地よく感じられた。
 ここには自分の知る故郷とは全く違った時間が流れている気がする、と咲希は思った。それでいて忙しない都会の雰囲気ともまた違う。懐かしさと新しさが融合したようなこの空間は、咲希に感じたことのない感覚を味わわせた。

 それからしばらくして、再びパタパタという足音が聴こえたかと思うと、薫がコーヒーを運んで階段を上がってきた。「お待たせしました」と言う薫の手元からは、フワッとコーヒーの香りが漂ってくる。
「…いい香り」
テーブルにコーヒーが運ばれ、咲希がそう呟くと、薫の顔がぱっと明るくなった。
「私もこのコーヒーの香りが、すごく好きなの。気に入ってもらえると嬉しいな」
そんな薫の明るい笑顔につられて、咲希からも自然と笑みがこぼれた。
「蜂蜜を少し入れても美味しいんですよ。よかったら試してみてくださいね」
薫はそれだけいうと、一階へと降りていった。
 咲希はマグカップを手に取ると、鼻を近づけてコーヒーの香りをしばらく楽しんだ。それからカップに口をつけ、味わうようにコーヒーをすする。咲希の口から、ふうっと漏れ出たため息を確認すると、藤永が待ってましたとばかりに声を掛けた。
「どうかな?薫さんの淹れるコーヒー、美味しいでしょう?」
前のめりになっている藤永にチラッと視線を向けると、咲希は無言でもう一度コーヒーを口にした。

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yuca. | 染葉ゆか(Yuca Aiba)
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