地平線 (小説)⑤
「真夏さんだよね。えっちゃんからお話は聞いてるよ。」
尚香が真夏に話しかけてきた。
「かげるさんのお孫さんの絵、私ファンで、かげるさんにお願いしてたの。次送られてきた絵をKOKAGEに飾ってって」
自分の知らない間に、自分の絵が独り立ちして、カフェに訪れる多くの人の目に触れることになると、かげるさんの孫は知ったらどう思うだろうか。ふと真夏は思った。
「真夏さんは何のお仕事をしてるの?」
何気なくかげるさんが聞いてきた。
「えっと、1か月半前にこっちに引っ越してきたばかりで。実は今職探し中なんです。」
「そりゃ大変だ。ご飯食べれてるかい。貯金はあるのかい?」
かげるさんと尚香さんは揃って真夏を気にしている。
「僕のところで雇ってあげたいんだけど、残念ながら一人でやる仕事だからなぁ。手伝って欲しいこともあるにはあるんだけど・・・。そうだ、KOKAGEで働くのはどう?」
「えっ、KOKAGEは、今募集中なんですか?」
「なおちゃん、真夏さんがKOKAGEで働くのはどう。」
尚香は、少しだけ考えて答えた。
「お皿洗いとか色々人手が欲しかったの。いてくれたら助かるけど。真夏ちゃんが良ければ」
「本当ですか?私でいいんですか?」真夏は目を丸くした。
「もちろん。」尚香がサッパリと答えた。
そんなこんなが、一週間前に真夏が、カフェKOKAGEデビューするきっかけであった。
小さなカフェKOKAGEは、11時開店、20時半ラストオーダー、21時閉店の店だった。面接という面接はせず、尚香とテーブルで向かい合わせで話し、給料面でのやり取りを軽くする程度だった。
アルバイトの初日。真夏はドキドキして昨晩いつ眠りについたかわからないぼんやりとしたベッドの中、早朝6時に目が覚めてしまった。何気なく携帯に目をやると、妹の冬那から珍しく連絡が入っている。
「真夏ちゃん、そろそろお母さんに近況報告してね。心配してるよ。」
そういえば、例の変な体験をしたあの日以来、通話中だった母から着信履歴の折り返しで何度か電話がかかって来ていたが、すれ違いだった。最終的に「元気にやってるの?」と母からのメッセージに対して「元気だよ」と返事したまま、会話は続かなく終わっている。
専門学生の冬那は、実家暮らしということもあって何かと母と顔を合わせ話す機会がある。
カフェKOKAGEのオープン時間30分前、真夏がカランコロンと扉を開くと、仕込みの尚香と開店作業をしている絵都が「おはよう。今日からよろしくね」と笑顔で出迎えてくれ、真夏もつられて「今日からお世話になります。」とペコリと頭を下げた。
「えっちゃん、これ、遅くなっちゃったけど」
真夏の手から受け取った写真を見て絵都が「わぁ」と言っている間に、すかさず横から顔を出した尚香が、「えっちゃん可愛い〜!いい笑顔!」と入ってきて、3人の笑い声が誰もいない店内に響いた。
真夏がある日、表参道の路地を散歩していた時に見つけた雑貨屋。そこで見つけた写真立てのアンティーク調の装飾があまりにも美しく魅かれ、初めて撮った絵都の写真を入れてプレゼントしようと決めた。
客が何を好み何を頼むのかわかってきた頃、真夏がKOKAGEで働き始めて1ヶ月が経とうとしていた。
尚香が「まなっちゃん」と呼び出すと、数人の常連客も真似をした。
KOKAGEに来るのは、仕事終わりのスーツ姿のサラリーマンやOLではなく普段何をしているかわからない人が多かった。参考書を広げる社会人らしき人もいたが、ほとんどは午後の暇を持て余した老人、尚香の世代の友人がほとんどだった。
尚香は昔美容師をしていたので、美容師の友人が多く来たが、たまに来るかげるさんの知り合いらしき人とも楽しそうに話していた。
カフェのその日のメニューも尚香のやる気と気持ちで決まる。マニュアルは何もなく、ほとんどが尚香の仕込みの手伝いや、食器洗い、お客さんの接客、店のホームページの更新だった。
そんな中で真夏には少し楽しみが出来た。それは、八百屋に野菜を仕入れに行く時だ。絵都と野菜を選びながら、このトマトは美味しそうとか、これは旬の野菜、これは珍しい野菜で食べたことないから仕入れてみようと相談しながら決める。尚香はよく賄いも作ってくれた。
音楽が好きな真夏は、店内のBGM担当になった。
KOKAGEでは基本、尚香が週6日、えっちゃんが5日働いていたが、今は真夏が週4日、学生の樹里が週3日で入っている。
樹里は近くに住む美大生で将来漫画家になりたいらしい。課題に追われていて、疲れているのかいつも少しけだるいような雰囲気をまとっていたが、しっかりしていて、頼れる年下の女の子だった。
真夏は引っ越す前まで、地元の雑貨屋でレジ打ちをしていたのでレジは慣れていたが、飲食店で働く経験はなかった上、シャイな性格もあり、様々な人と顔を合わせ話すというKOKAGEのスタイルは何もかもが新鮮だった。特に絵都のお客に対する気配りや話しかけ方は真夏には簡単に真似ることができるわけもなく非常に感心した。
絵都は常連の顔や好みをきっちり把握し、気さくで愛嬌のある態度で接し、世代問わず可愛がられた。
真夏にとって絵都は羨ましくもあり、友人になれたことに誇らしさもあった。
「えっちゃんは、かげるさんのアパートいつから暮らしているの?」
ある日、閉店作業で店内を掃除してる真夏が、濡れたグラスをふく絵都に問いかけた。
「1年前からだよ。」
「1年前はどこにいたの?」
真夏には何気ない質問のつもりだったが、絵都の顔が一瞬戸惑うのを真夏は感じ取った。
「言ってもわからないとこだよ」
その瞬間、真夏は絵都にはぐらかされたような気がしてならなかったが、もうそれ以上触れずにおくことにした。人には聞かれたくないこともある。
「あ、そういえば、明日かげるさんが真夏ちゃんに用があるみたいなんだ。かげるさんから預かりものがあって」
「私に?なんだろう」
バイトは休みだ。
「もし大丈夫なら10時にこの場所に来て欲しいって」
絵都がエプロンのポケットから折りたたまれた紙を取り出して真夏に手渡した。
そのメモは、破かれたA4用紙で、端に地図が描かれていた。
駅名と線路、そしてゴールを繋いだ線には「10分」と書いてあり住所も載っていた。
「ここってどこかな?」
真夏がえっちゃんに問いかけると、
「さぁ」とえっちゃんが首を傾げた。えっちゃんも知らない場所となると、情報の共有は何もなく、かげるさん本人に聞くしかないが、今日はかげるさんは店に顔を出していない。それにもう閉店時間だ。
「家来てみる?かげるさんいるかも」
えっちゃんのその言葉に頷き、真夏は絵都のアパートへと、絵都と共に家路を急いだ。