地平線 (小説)②

電源も、Wi-Fiも人気もなさそうなそのカフェを、なぜか真夏は気に入ってしまった。これはえっちゃんと呼ばれるその娘の魔法かもしれない。真夏は密かにそう感じた。
「カフェ、KOKAGEかぁ。」

 次にえっちゃんに会ったのは、照りつける日差しが強い日々の中で久しぶりに降った雨の日の昼下がりだった。真夏はまた一人きりだった。急に降り出した通り雨に髪を濡らし、知らないビルの中で雨宿りしていると、真っ先にスノードームのカフェを思い出した。気がつくと、足はカフェの方へ向かっていた。商店街を通り抜け、路地裏のカフェの扉を開くなり、カランコロンと心地良い音がして、えっちゃんが笑顔で「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。

「こんにちは。急に雨に降られちゃって。先にお手洗い借りても良いですか。」

「はい、こちらです」えっちゃんがうなずき、手で案内するのを見て戸を開けると、真夏は鏡の前で、雨に濡れた前髪を整えた。
最近、重たいロングヘアをショートボブに切ったばかりだった。

狭い店内に相応しくこじんまりとしたトイレはとても清潔感があり、木の棚にはトイレットペーパーが整然と並んでいる。

真夏は少し気持ちが落ち着いた。

 前に座った時と同じ席に着くと、アイスコーヒーとチーズケーキを注文した。相変わらず、テーブルにはスノードームが置いてある。
白いうさぎが雪に埋もれている。

「今日は常連さんいないんですね」

注文を聞きにきたえっちゃんにそう投げかけると、

「雨降りそうだーって、ふりだす前に急いで帰っちゃいましたよ、かげるさん」

どうやら常連さんは、かげるさんというらしい。えっちゃんは間をおいて続けた。

「わたしこの前、写真のこと途中で聞きそびれちゃって。どんな写真撮っているのかなってすごく興味がわいて。」

真夏は少しこそばゆいような気持ちになった。

「色々です。風景とか、人々、日常にある町の中のものとか・・・」

えっちゃんは真夏のカメラにとても興味を持った様子だった。

見た目が同年代だろうということに気を許し、純粋に興味を持ってくれたことを真夏は快く感じた。

「よければ作品撮りのモデルになってもらえませんか」
ふと気がつくと、真夏はそんな言葉を彼女に放っていた。

「え?私が?」えっちゃんは丸い目をさらに丸くした。

それから、真夏はハッと自分が口にしたことに気付いた。

「あ、あのもしよかったら・・なのですが」

「いいですよ」

えっちゃんはすぐにあっけらかんとした笑みを見せた。真夏は彼女の意外な答えに驚いた。

真夏たちは次の土曜日の朝10時に、駅の南口で待ち合わせる約束を交わし、カフェで別れた。

 店を出ると雨がまだポツポツ降っていて、見上げた灰色の空はどんよりしているが、なぜか商店街を戻る真夏の足取りは軽やかだった。

帰り道、真夏はえっちゃんとの会話を思い出していた。

「私の名前、絵都(えつ)といいます。お客さんからはえっちゃんと呼ばれています」

「私は真夏です。私もえっちゃんって呼んでいいですか?」

 雨の水たまりをはじくように心が踊った。東京に引っ越してきて1か月が経ち、真夏にとって初めてできた友人だった。

 土曜の朝10時、駅で待っていた真夏がふと時計を見ると3分を過ぎていた。町の店々は、重いシャッターを閉ざしたまま、開店時間を待っている。この町の始まりはのんびりしているようだ。ちらほら歩いている若者がいるが、活気はなかった。

「真夏ちゃーん。お待たせ」

踏切の向こうでえっちゃんが手をふっていた。

「えっちゃーん」

思わず、真夏も手を振り返した。えっちゃんの肩まで伸びた茶色い髪が、サラサラと風になびいている。

線路を電車が通過し遮断機がゆっくりあがる頃、近づいてきたえっちゃんの腕にラムネ瓶が2本抱えられているのに気がついた。

「はい、ラムネ。大家さんに貰っちゃった」

「へぇ、優しい大家さんなんだね」

絵都が真夏に1本手渡すと、路地の端っこでラムネ瓶のビー玉を慣れた手つきで押し込み開けた。真夏も真似したが、泡がしゅわしゅわ溢れ出してしまい、腕に滴り、大変なことになった。えっちゃんはそれを見て屈託のない笑顔で笑った。

 南口の坂を下りていくと、小さな公園があり、ベンチに二人で腰をおろした。

 気持ち良い青空で、風もある爽やかな日だった。

「真夏ちゃんの麦藁帽子かわいいね。よく似合ってる。」

「そうかなぁ」

そう言いつつ、真夏はとても嬉しかった。最近、下北沢を散歩中見つけたお気に入りの麦藁帽子だ。

真夏は自分でかぶっていたそれを、絵都の頭にかぶせてみた。

「えっちゃんも麦藁帽子似合うね。」

「本当?」

えっちゃんは嬉しそうに少し照れた。

「じゃあ、麦藁帽子と一緒に撮ってもいい?」

真夏は絵都にかぶせたまま、シャッターを切った。
そのまま撮ると顔が暗くなるため、今度は麦わら帽子を手に持ってもらいシャッターを切った。

えっちゃんが夏の空を見上げている構図。白のワンピースに、公園の周りに咲くひまわりの背景が美しい。

真夏は誇らしげに自分の撮った写真を眺めた。

「見せてー!」えっちゃんは真夏の撮ったカメラのディスプレイを覗き込んだ。

「わぁ、これ本当に私?綺麗に撮ってもらえてる」

「この写真、現像して、えっちゃんにあげるね」

「本当に?いいの?」

えっちゃんは目を輝かせた。「写真、出来上がったらかげるさんにも見せてあげたいなぁ。」

えっちゃんはすかさず、肩にかけたカバンから手帳を取り出した。すると、挟んでいたハガキが1枚はらりと落ちた。真夏が拾い上げると、手書き風のイラストには、羽の生えたブタが空を飛んでいる。その端っこに書いてある文字を見て、真夏はハッと気がついた。

「これ、もしかしてえっちゃんが描いたの?」

絵都は恥ずかしそうに「そう」と頷いた。

「可愛い!センスあるね」

「ありがとう。なんかふと絵が描きたい時期があって。よければ真夏ちゃんにあげるよ。」

今度は真夏が目を輝かせる番だった。

「えっちゃん、ありがとう」

「風景は描けないけど、たまに動物とかキャラクターを描いたりして、ポストカードにしてるんだ。でも、写真も興味あるよ。」

公園を背に二人は街をぶらぶらすることにした。

「えっちゃんの名前って素敵だよね。絵が好きだからえっちゃんにピッタリ」

「母が絵が好きな人なんだ。真夏ちゃんは?漢字はあの真夏でいいのかな?」えっちゃんが空に指で描く仕草をした。

「そうだよ。夏の暑い日に生まれたから真夏なんだ。うちの親って単純」

えっちゃんは「あはは」と笑った。


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