【井の中の蛙が福岡からアメリカへ!】日本・アメリカ・台湾で暮らしてきた日本人のアイデンティティ喪失
みなさんこんにちは!台湾デジタルマーケティングの会社 applemintの代表を務める佐藤です!
今日は日本とアメリカで育ち、台湾で起業した僕の数奇な生い立ちについてお話をしたいと思います。
僕は2017年に台湾で起業して、早6年が経ちます。台湾で起業した日本人というだけで少し珍しい存在だと思いますが、僕は実は幼稚園と中学校、高校をアメリカで過ごし、大学も日本の大学にいながら大半のクラスを英語で受けていました。
その影響からか、日本にいた時はバイト先や就職先でよく注意を受け、日本特有の”根回し” や “空気を読む”といった事が出来ず苦労しました。
僕がアメリカで育ったと聞くと多くの人は、さも僕が裕福な家庭で育ち何不自由ない生活をしてきたと想像されると思いますが、実際はみなさんの想像とは少しかけ離れていると思います。
今日はそんな僕が日本とアメリカで育ち、東京の大学を出て、結果的に2017年に台湾で起業する事になった経緯についてみなさんにお話ができればと思います。
「お父さんとお母さんは離婚します」と告げられた日
僕は幼い頃、父がアメリカの現地の会社に就職した事がきっかけで、アメリカに5年ほど住みました。その後父が日本で独立する事に伴い日本の福岡に移住しました。
福岡に住み始めて9年後の14歳のある日、僕は母から両親が離婚する旨を聞かされました。その時の事は結構鮮明に覚えていますが、当時から父と母がなんとなく仲が悪いのは知っていたので、正直あまり驚きはありませんでした。
むしろその後母が僕に、「アメリカに引っ越す」と言った事の方が衝撃的でした。
なぜ母がアメリカに行く事にしたかと言うと、全ては僕のためです。母は僕の環境を180度変えるために僕と一緒にアメリカに行くことを決心しました。
その頃の僕は福岡市でもトップレベルに不良が多い事で知られる公立の中学校に入り、悪い事がかっこいいと思うようなグループと時間を過ごすようになっていました。
僕のその頃の友人の一人は数年後バイクの無免許運転で亡くなってますし、大半はその後数年以内に警察にお世話になっています。
そんな当時の僕を見かねた母は、僕が幼少期にアメリカに住んでいた時の友人を頼って、少々悪条件ながらもなんとかアメリカのビザを得る事ができました。
よく誤解されるのですが、僕がアメリカに引っ越したのは、不良になりかけていた僕を変えようと思った母の強い意志のおかげであって、留学や駐在や親の仕事の関係ではありません。
ストレスで毎日のように吐くアメリカ生活
アメリカに9年ぶりに戻った僕はストレスの多い毎日でした。英語を忘れてしまった僕は現地の学校に入っても何をしたらいいかわからず、クラスでずっと孤独でした。
僕が行くことになった学校には、日本人の学生はいたのですが、皆あまり日本語が出来ず、僕はコミュニケーションを取れないストレスからよく吐いてました。その当時は大好きなマクドナルドのハンバーガーをトイレで吐いてしまったのを今でも覚えています。
ちなみに、アメリカに引っ越して半年が経った頃に、僕は学校で香港から来た日本好きな香港人の女性に出会いました。僕と彼女は何かと共通の話題が多かった事からその後意気投合し、僕は彼女と付き合い始めたのをきっかけに英語がものすごいスピードで上達しました(笑)恋愛の力はすごいですね。
アメリカ生活も1年経つと英語をだいぶ話せるようになり、だいぶ慣れ始めました。それでもアメリカに慣れるのには時間がかかり、その当時はストレスからよく母に対して怒っていたのを覚えています。今思うと申し訳なかったなと思います。
ただ、生活面は決して余裕があった訳ではありませんでした。母の給与は決して高くなかったので、外食はほとんどしませんでした。お小遣いもないので僕は高校1年生の時から週末に日系のスーパーでバイトを始めました。
*その後友人も同じスーパーでバイトを始め、その当時少しバイトブームが起きました。
経済的に苦しい中本当に幸いな事に、僕達はアメリカに移住してから 1年後に Mr. Ozamoto という日系アメリカ人に出会いました。僕達は彼を通じて比較的立地がいい場所に、格安でアパートを借りることが出来ました。
彼はアメリカで第二次世界大戦中に日系人収容所に入れられた経験をした人で、ロサンゼルス在住の日本人に苦労はさせたくないという気持ちで、アパートを市場よりも1.5倍ぐらい安く貸し出していました。彼の吸い込まれるような瞳は今でも決して忘れられません。
日本の大学への進学
アメリカでの生活にも慣れ、僕は気づけば高校卒業を迎えていました。僕がアメリカの高校を卒業するタイミングで、母のビザは失効する事になっていたため、母は日本へ帰国する事になりました。
僕はアメリカの大学と日本の大学という2つの選択肢がありましたが、最終的に日本 (東京) の大学を受験する事にしました。
大学の費用は幸いにも、母が離婚時に父に対して僕の大学の費用を全て負担する事で合意を取っていたらしく、そのおかげで僕は大学時代は高校時代よりも経済的に楽な日々を過ごしました(笑)
*ちなみに僕が行ったのは ICU という東京にある私立の大学で、日本では一番学費が高い大学で有名です...
大学のため東京に出て一番最初に驚いたのは、東京の人々が電車に乗り込む際に何も言わずに後ろからどんどん押して来る事でした。アメリカで高校生活を終えた僕からすると、東京の人はとても冷たく見え、その当時は逆に日本の生活に馴染めずアメリカに帰りたいとばかり思っていました...
また、その当時から憂鬱な表情で出勤する東京のサラリーマンを見て、なるべく早くこの国から出ようと考えていました。
その後大学を卒業するタイミングになり、いよいよ就職する事になりましたが、僕は日本を出てアメリカで就職するため、日本語・韓国語・中国語のスキルを身につけようと考えました。
実績や経験、スキルがない人材はすぐにクビになるのがアメリカなので、日本のスペシャリストではなく、アジア市場のスペシャリストになれば、アメリカで就職した時にクビにならないと考えた僕は、まず東アジア全ての言語を習得しようと考えました。
韓国語は日本語と文法が近くて学びやすいと聞いていたので、まずは難しそうな中国語から学ぶ事にしました。
色々調べると、偶然にも僕が大学を卒業したタイミングで台湾と日本の間でワーキングホリデーが始まったので、2010年に台湾に行って台湾現地で中国語を鍛えようと思いました。
本当に失礼な事に、僕はそれまで台湾はタイの近くにあると思っていたぐらい台湾の事は知らず、ほとんど何も調べずに台湾に行きました。
台北=タイ!?、台湾との出会い
大学卒業後ワーホリビザで台湾へ来たのはいいものの、最初は全く中国語ができませんでした。でもお金がなかったので、語学学校等には通わず、WWOOF を通じて知り合った現地の農家とコミュニケーションを取りながら中国語を学んでいきました。
ただ、中国語は僕が当初思っていたよりも習得が難しく、特に最初の頃は4声の発音の習得に苦労しました。その頃の僕は朝から夕方近くまで農作業をし、仕事の後に YouTube でバラエティ番組(康熙來了) を見て単語を調べ、何度も巻き戻しと再生を繰り返して発音を真似て中国語を学びました。
そしたら3ヶ月も経つと、聞き取りができるようになり、半年も経つと日常会話ぐらいのコミュニケーションは取れるようになりました。コミュニケーションが取れるようになると、台湾での生活が面白くなり、台湾現地の人とコミュニケーションを取る過程でどんどん台湾に惹かれていきました。
ただ、残念ながらその時ワーキングホリデーのビザが切れたので、せっかく台湾が好きになり始めた時に道半ばで日本へ帰国し就職する事になりました。
日本就職、失望そして再び台湾へ
僕が就職した先は台湾とも関係があった半導体関連の会社だったのですが、僕は英語が出来るという理由でヨーロッパとアメリカ市場の営業アシスタントになりました。
僕と同期入社した社員には中国語が出来る人はいなかったので、僕は上司に対して僕が台湾市場を担当出来れば、中国語で現地のスタッフと円滑にコミュニケーションが取れるとアピールをしました。
しかし状況は変わりそうもなかったので、入社してから半年後にはお金を必死に貯め始め、その会社は2年+半年後に辞めて2013年の秋には台湾の大学院に入る事になりました。
台湾の大学院に入り、ようやく台湾に戻れたものの、卒業後は結局日本(東京)へ帰国する事にしました。その当時の台湾は円安ではなく給与水準も日本より低かったのが一番の理由です。
東京で何不自由ない暮らしをしていたのですが、また台湾へ戻りたい気持ちが芽生え、2016年に現地の会社に就職する形で台湾へ戻りました。どうやら僕はよっぽど台湾が気に入ったようです。
その会社では今までの自分の経験や知識を活かし、水を得た魚のように働き社内の営業成績もトップでした。しかし自分が天狗になっていた事もあり、上層部と意見の衝突が起き、1年という短い期間で退職しました。
その時僕はちょうど30歳になったばかりで、今このタイミングで起業をしなければもう二度と起業というリスクが取れない気がしたので、起業しました。その時僕はたまたま台湾にいたので台湾で起業をしました。
よく「なぜ台湾で起業をしたのか?」と聞かれますが、答えはたまたまです(笑)
先日台湾で事業を立ち上げて、10年という日本人経営者の方とお話をしましたが、あっという間だったとお話をされていました。僕も台湾で暮らして10年、起業して6年経ちますが、本当にあっという間でした。
嫌な事もたくさんありましたが、本当に現地の色々な人に助けられここまでこれました。これからも台湾の発展に貢献できるよう少しでも恩返しが出来ればと思います。
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