価値と推し
6月の朝は早い。
5時頃、東の窓から太陽が上り、出窓を開けると早朝の草木の香りがする。
田舎で感じたことのある自然の香りが、人や交通の出入りが少ない都会の朝にも流れていると思うと、土地や人種など関係なく、同じ日本にいるものだと感じる。
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話が変わるが、「推し」と言う言葉が実はあまり好きではない。
いや、自分自身には数年前から推している推しはいるのだが、どうも世間に認知されすぎたこの新興ワードは、当事者と傍観者では受け取り方がどうも違うように感じる。
周りを無視した冷ややかな視線と利用価値の高い魅力をもつこの言葉は流行りの言葉使いとして色んな場面で使われる。
私は今、自分の好きな「推し」の配信を聴いて文章を打ち込んでいる。
浪費するだけの時間を、他者の声で埋める時、
時間の価値を認識する。
私の価値なのか、はたまたその推しの影響なのかは分からないが、無価値な時間に価値を感じる。
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人生に目標を掲げていたのは大学を卒業したあたりの新卒だった頃にありがちだった。
企業に採用されたいが為、思いもしない理想や理念をエントリーシートにこれでもかと綺麗に書き込んだ。
面接官の質問にも、将来は他者に貢献したい社会の為に、と謳った。
相手の受け取り手のいい言葉を当たり障りなく使った。
相手の求める理想の自己像に成りたかった。
それが自分の価値だった。
中身の無い上部は試験管に見抜かれたであろう、
貴方の本当の意見を聞かせてくれと第一志望の面接で言われた。
他者に溶け合うかのように生きてきた私に本当の意志など存在するのか。
仕事のストレスで声が出せなくなり思うように話せなくなってから、更に人とのコミュニケーションが困難になった。というより話を聴いてもらえることがなかった。
「推し」の配信を聴きながら、
価値や自己意識について考える。
今日も私の意識は宙に浮いたままだ。
曖昧なまま、あやふやなままにしておけば
あとは他者が良いように解釈してくれる。
そんな甘えと余地を残して対人コミュニケーションから逃げる。
いつからこんなに怖がるようになったのだろうか。
自分の言葉を紡ぐことは、繊細で大胆で、
難しい。