最近考えていること 2021.4.3
先日、『nomadlamd』という映画を見てきました。
簡単なあらすじをいうと、
○物語:家を失った女性は、キャンピングカーに人生を詰め込み旅に出た
ネバダ州の企業城下町で暮らす60代の女性ファーンは、リーマンショックによる企業倒産の影響で、長年住み慣れた家を失ってしまう。キャンピングカーに亡き夫との思い出や、人生の全てを詰め込んだ彼女は“現代のノマド(放浪の民)”として車上生活を送ることに。
過酷な季節労働の現場を渡り歩き、毎日を懸命に乗り越えながら、行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ねる。誇りを持って自由を生きるファーンの旅は、果たしてどこへ続いているのか――。 (映画.comより)
というもの。
僕は割と映画を観るのが好きな方ですが、僕が映画を観る事が好きな1番の理由は、映画鑑賞によって、知らない世界や、人、モノ、生き方、考え方を知る事ができるからです。そういった意味では、まさしく今回の映画は”ノマド”という、知っていそうで、実はよく知らなかった生き方、そして彼らがその生き方をする理由が、少しではありますが、わかるとても良い映画でした。機会があれば、ぜひ観てみてください。
前触れはさておき、記事のタイトルにもした最近考えていることについて。キーワードは、”言葉の定義”と”他人との比較”です。
普段自分が何気なく使う言葉の(あくまでも自分にとっての)定義について、皆さんはどのくらい考えた事がありますか。話が行ったり来たりで申し訳ありませんが、例えば、先程の映画についても、自分は何気なく”良い映画でした”と言ってしまいましたが、”良い映画”の定義って何なんでしょうか。それは人それぞれ違うかもしれませんし、自分の”良い映画”の定義と同じ定義を持った人が、もしかすると他にもいるかもしれません。僕は、ここ数日間、そういった言葉の定義について少し考えてみましたが、考えれば考えるほどよくわからなくなってきました。
「そもそも良い映画って何だろう?」
皆さんにとって”良い映画”は何ですか。そこに他人との比較や、他人にどう思われるか、という意識は入っていないんでしょうか。自分が”良い映画”と言っている背景には、実は自分の好きな著名人が好きな映画であると公言していたり、「この映画を”良い映画”ということで他人からの評価が良くなるかも」という思いや、世間的な同調圧力によって、自分の心の底ではそんな感情を抱いていなくても「この映画はいい映画なんだ」と自分に言い聞かせることによって、”良い映画”と言っているだけかもしれません。少なからず僕は、そう言った思いから自分の”良い映画”を形成してしまう事がよくあります。
自分が心から”良い”と思える映画に必要な材料や定義を自分で考えていないと、それはいつしか自分の”良い”ではなく、他人の”良い”になってしまうような気がします。そして言葉の定義は”良い”に始まり、「”カッコいい”ってなんだ?」「自分の”やりたい”ってなんだ?」など考え出したらキリがないし、答えは数日考えただけでは到底出すことはできないはずです。がしかし、おそらくではありますが、考えることをやめることだけはしてはいけないんだな、というのが現段階で僕が出した結論です。
次はもう一つのキーワード”他人との比較”について。これも、自分の中で”言葉の定義”を考えているうちに気になってきたことです。
僕は割と幼い頃から、人の目が気になるタイプだったと自分では思っています。そのため、人の目を気にして、人の目なんか気にしていないようなフリをして生きてきたように思います。
そして、人の目を気にしているうちに、その環境の中にいる”かっこいい”人に憧れ、嫉妬して、その人みたいになりたい、と思ってしまいます。そのこと自体は、そんなに悪いことではないような気がするのですが、環境が変化すると、自分の中の”かっこいい”人も変化します。昨日までは、勉強なんかしないで遊んでいる人に憧れて、嫉妬していたはずなのに、今日になると、机に向かってガリガリ勉強している人に憧れていたりします。
極端な例かもしれませんが、割と全く同じ気持ちの変化が、僕の中で起こる事があります。けど、それって僕の中で”かっこいい”が、しっかり定義できていないからなのかな、って最近は思ったりもします。最近出会った高校生の男の子が「僕たちは他人からの比較から逃れることはできない」と言っていて、その一言がすごく印象に残っています。
映画を見ながら、「ノマドになれば、他人のことをいちいち考えず、自分の追い求めているものを、文字通り追求できるのかな」なんていうのが、最近考えている事です。