解散3年を経て「わたしにとってのWake Up, Girls!」を振り返る
あれは今日から遡ること3年前の2019年3月8日の金曜日、ぼくは生まれて初めて埼玉新都心駅に降りた。けやき広場付近の地下にあった中華料理店で、炸醤麺を啜りながら、「ずいぶん、遠いところまで来てしまったな」と思いを巡らせた。それは、自宅から会場までの物理的な距離感についてだけでなく、何よりもWake Up, Girls!というグループが、このステージまで到達した事実に対して。
友愛と感動、そして静かな悲しみに包まれていた、この日のWUGのさいたまスーパーアリーナの解散ライブを観たことによって爆発した自分の感情については、3年経った今でもうまく語る言葉を持っていない。
しかし、あの日の解散から3年を経過した今、改めて「わたしにとってのWUG」とは何であったのか、記憶があるうちに書き記していきたいと思う。
WUGに興味を持ったきっかけは、まず、大好きなサウンドプロデュース集団、MONACAが楽曲制作に携わっているということを、アニメ作品としての『Wake Up, Girls!』の発表時に知ったときだった。最初の映像作品だった劇場版こそ鑑賞の機会を逃してしまったが、TVシリーズはぜひとも観なければ、との思いで、本放送時に観賞している。
時はアイドルアニメの戦国時代。すでに巨大な波と化し、オタク業界を飲み込んでいた『アイマス』『ラブライブ!』のアニメ化作品に触れた後だった。
それらに比較すると、『WUG』は作画を筆頭に予算面の制約を感じさせる、ややローファイな印象。TV版に先立って上映された、いわゆる「エピソード0」に該当する劇場版『七人のアイドル』を未鑑賞だったためか、ストーリーも理解し難く、戸惑いは拭えなかったため、数話で視聴を止めてしまっていた。
楽曲についても、アニメのストーリーを理解していない自分には、思い入れを抱くまでには至らなかったのが正直なところだ。
しかし、その後に制作されたスピンオフアニメ『うぇいくあっぷがーるZOO!』の主題歌”ワグ・ズーズー”の痛快極まりないポップさに触れ、改めてちゃんとこの作品に向き合おうと思い、『七人のアイドル』から再入門し、TV版全話を鑑賞し、ずぶずぶとこの作品の魅力に引き込まれていったのだった。
もともとアイドルアニメも好きだったが、ほろ苦い青春や青年期の光と影を感じさせるバンド映画――『バンドワゴン』あるいは『ザ・コミットメンツ』や、音楽業界あるあるネタ満載の虚実混交バンドドキュメンタリーの『スパイナル・タップ』等が大好きだったぼくは、アニメ作品としての『WUG』にも夢中に。
そして2015年に公開された『青春の影』と『Beyond the Bottom』の2本の劇場版を観終わる頃には、改めてストーリーを背景にした既存の楽曲も力強く響くようになってきており、作品と共鳴するリアルアイドルであるWUGへの思い入れも膨らんでいった。
当時のぼくは、現業職として、1年のうちの多くを現場で寝泊まりする日々。仮眠時間になったら、半ば死んだような気分でよくWUGのラジオをイヤフォンで聴きながら寝入っていたし、あまりにも辛くやりきれない仕事のせいで、音楽を聴き入る余裕が生活から減衰しても、彼女たちの楽曲は例外的にずいぶん聴いていたと思う。
WUGの楽曲は、歌詞が良い。ビターで、人生に対するある種の悲壮や決意が通奏低音のように流れている辛矢凡の詞と、十代の一瞬をスナップしたような只野菜摘の詞のコントラストが素晴らしい。後者の作詞にしても、青春の無垢さと、それが終わりゆく悲しみが共存しているように聴こえた。
親友 そう呼べる子は
一生 生きるうちに
何人 出逢えるかな
叔母さんに聞いてみたの
「そうね 恋人より もっと少ないかも」
(セブンティーン・クライシス)
満員電車 それが人生の縮図なのかな
不安になる
(地下鉄ラビリンス)
大人になるまでの一時期、何かに守られていたようなイノセンスと、それがふと終わりを迎えてしまう予感ががないまぜになったフレーズには、いつだって感情を揺さぶられる。
WUG以外の楽曲で言えば、例えばそれは、ぼくなら。
なんてコトない毎日がかけがえないの
オトナはそういうけれど
いまいちピンと来ないよ
(STAR ANIS / カレンダーガール)
放課後別れたら明日は
もう会えないかもしれない
(ランカ・リー=中島愛 / 放課後オーバーフロウ)
いや、歌詞の話はここまでにしよう("カレンダーガール"を聴くたびに泣きそうになってしまう話もまたいつかの機会に)。WUGの楽曲面でいえば、最初期こそ一般的なアイドルソングの範疇(と呼ぶにはエモーショナルすぎるし、あえてトレンドからは一定の距離を置き、ある種の普遍性を目指したサウンドであったかもしれない)に括れたと思うが、コンポーザーたちの個性は、活動が後期に差し掛かるほど、作中ユニットのI-1 Clubへの提供曲共々、先鋭的に発揮されるようになっていった。
気品あるジャズ/フュージョン("ゆき模様 恋のもよう", "Jewelry Wonderland")、Tomato n' Pineにも比肩するファンク・ポップ("Knock Out", "Polaris" )メロウなウェストコースト風AOR(土曜日のフライト)等、音楽面でもプログレッシブなアイドルユニットと呼べたはずだ。アイドルはアイドルである前に、楽曲が強くなければならないというストロング・スタイルに、どこまでも誠実であった。
リアルアイドルとしてのWUGに触れないわけにもいかないだろう。決して単純な作品の付随物として選ばれたキャストではない。作品の企画と共にオーディションが催され、その中から選ばれた現実の彼女たちをモチーフにキャラクターが創作され、時には意図的に虚実を混交させながらストーリーも創造されていったのだから。
その独自性、自律性が、アニメ作品としての『WUG』が完結した後も、彼女たちの活動を違和感なきものにしていたと感じる。
メンバー7人の魅力や天賦については、あえて語るまでもないであろう。それは皆が見て、聴いて、よくわかっているだろうし、これから個々の元メンバーに触れる人たちに体感してほしいから。
ぼくが今、心から後悔していることは、彼女たちが活動しているときに、もっと積極的に公演やイベントにも足を運んでおくべきだったということだ。
振り返ってみても、現地で生のWUGを見たことは、以下の公演しかない。
2016年
MONACAフェス2016
Wake Up, Girls!Festa. 2016 SUPER LIVE
2017年
Wake Up, Girls! 青葉の記録
2018年
Green Leaves Fes
Wake Up, Girls! 青葉の軌跡
2019年
Wake Up, Girls! FINAL LIVE〜想い出のパレード〜
解散してしまった後に気づくのだ。まだまだ、足りなかった。日常にまつわるあれやこれやを理由に、行かなかったこと、好きであるのに一定の距離を取り続けたこと(それは「自分はアイドル自体より楽曲が好きな人間なのではないか」という自己認識に拘泥していたことに起因する)については、実に後悔しかない。その念は、彼女たちが解散してからの3年間で、より強まっている。今、好きなアーティストやアイドルがいるけれど、尻込みしてしまい、なかなか現場に出向いていない人に伝えたいのは、「推しの活動は不滅ではない。推せるうちに推し、会いに行けるうちに行け」ということである。
WUGというアイドルの何がそこまで好きだったか。作品のありようと共に彼女たちが偶然にも抱えてしまった平坦でない道のりのストーリー性、メンバー、楽曲、パフォーマンス、その全てと言っていい。
そして、忘れてはならないことがある。アニメやユニットのファンではない人間からの無遠慮な批判に晒されながら、不和も、時には活動の存続まで危ぶまれる状態も経験しながら、WUGは2013年から6年近くにわたり、一人の脱退者もなく活動を続け、あらゆる下馬評を覆し、さいたまスーパーアリーナという最後の大舞台に立ったのである。アイドルユニットの活動に四季があるとするならば、WUGは、春夏秋冬の全てを見せて、ぼくたちの前で解散していったのだ。
好きの裏側 憎しみで 大人にさせられても
少女たちはいつの日にか 卒業していく
(土曜日のフライト)
こんな歌を唄い、解散するユニットは他にいない。例え活動の裏で、ファン目線では計り知れない大人たちの黒々とした思いや魔が渦巻いていたとしても、最後の最後まで、ぼくにとってのWUGは、「真摯であること、正直であること、一生懸命であること」を体現し続けたアイドルだった。
大好きなミネラル★ミラクル★ミューズの楽曲”フライト23時”に、「むかし読んだ サンテグジュペリ きっと "かんじんなことは見えない"」というフレーズがある。
一方、WUGも”少女交響曲”で、「本当に大事なものは いつも見える訳じゃない」と唄った。
サン=テグジュペリが『星の王子さま』で記したフレーズとポップスの楽曲を、ロマンチシズムで結びつけるのは安易であるのかもしれないが、ぼくにとってWUGの活動を追いかけるということは、周囲の声(他者が下す評価や印象)ではなく、内なる声に従って、傍から見ているだけでは簡単に見えない「すてきな何か」を見つけ出していく過程だった。
三年一区切りとはよく言ったもの。今日はあの2019年3月8日の夜とWUGのことを思い出しながら、いい加減にぼくの人生も第二章に向かうことにしよう。
最後に大事なことなのでもう一度書く。推しの活動は不滅ではないので、推せるうちに推し、会いに行けるうちに行きましょう。