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はらこ飯食べたことがないなんて
はらこ飯親善大使の安田遥です(自称)。今年までに、3年続いた「はらこ飯」を作って食べる会がじんわり幸福なのである。ぜひこの幸せなものを知らない人のために、私は今日noteを書こうと思う。
みんなで食べるご飯はなぜうまいのか
一人だと誰にも止められず、好きなように好きなものを食べられる。しかし、昔から、最後の晩餐の絵のように、ご飯はみんなで食べられていたようだ。私がなぜはらこ飯を作って食べる会が好きなのか、について考えてみたい。
お皿洗いを決めるインディアンポーカー
きっかけ
東北出身の私は小さい頃から毎年決まって「はらこ飯」を食べていた。大学進学をきっかけに、上京してから半年、秋になり「そろそろはらこ飯の季節だね」と漏らしたことをきっかけにはらこ飯が地元の郷土料理であることを知る。なんと、この幸せな食べ物を知らないのか。そう気づいた私はツイッターで宮城出身の上京者に呼びかけた「はらこ飯たべよう」と。
前日の夜のしあわせ
はらこ飯を作るとなった前の日の夜に、私はいくらを仕込む。はらこをお湯につけてほぐし、いくらにする。これがかなりの手間なのだが、それがいいのだ。
食べる人の顔を思い浮かべる。明日はこんな話をしよう、こんなことがしたいなどと妄想する。気づけば時間が過ぎている。ときの流れを忘れて何かをするのはいつぶりだろうか。時間を気にせずなにかに熱中するのは、心を子供にしてくれるスイッチみたいなもの。大切にしなくちゃいけない。
心をなくすとかいて、忙しいと読むけれど、忙しいと心を無にすることもできないのだなあと、ふと感じたりする。
たんまり山盛りのイクラを眺めているとき、しあわせが飽和する。私のした単純作業が明日のみんなの豊かさを作っていると、確かに感じられる大切なプロセス。ここが実は一番幸せなのだ。
レシピなんてないのよ
今年は私が楽をしようとして、つくるみんなに指示だししやすいようにレシピを探して共有しておいた。でも私がずっと食べてきた実家のはらこ飯にレシピなんてない。どばどばどばと、醤油やみりんなどを入れて味見をしたら水と足したりするだけなのだ。レシピはないけどある。そんな一期一会な、奇跡的な食べ物こそがはらこ飯なのである。
みんなで作ったはらこ飯はその日限り。もう二度と会えない奇跡の味。
ないけど、あるのだ。たしかにある。
ストーリーに登場すること
私達が美味しくご飯を食べるときに、一番大事なことがある。自分が主役であると自覚を持つことだ。私のためのご飯をしっかり選択肢、食材を切ったり混ぜたりしながら、主人公としてその食べ物のストーリーの作りてとして、自信を持って登場してほしい。
こんなうまいものを食べたことないあなたのためにつくりたい。これがないともう秋を感じない体になってしまったのです。食べたことのないあなたは、今年の残りの秋を楽しむもよし、来年の秋を待つもよし。
ぜひその時はあなたと同じ釜の飯を食いたいよ。
(翌日朝追記)
残り物のはらこ飯(なんてぜいたくな)をひとり温めて、いくらをかけて食べました。うんまぁってなるんだけど、昨日はみんなと一緒だったのに、、一人だけ食べていいんだろうか、、と背徳感で一杯になりました。みんなごめん。美味しかったよ。やっぱりみんなと食べたいよ。さみしかった、、
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