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『私はウイルス』——第1章 封城日記:2,20200202 迟到的反思
不幸中の幸いだったのは、私が最後に外出した1月19日から14日間経った2月2日まで、ずっと家に留まって何事もなかったことだ。同僚たちもごく親しい友人たちもみな無事だった。微博の友人グループ(朋友圈)では一人だけ高校の同級生の感染が確認された。このころになってようやく私は自分の論理的思考能力をゆっくりと取り戻してきた。数日前からネットに爆発的に増えた情報によると、武漢の新型コロナウイルス禍は昨年12月に始まり、伝染後1カ月余、当局は当り障りのない(轻描淡写)対応で警戒情報も出さず、市民の90パーセントはマスクもしていない状況だった。それが一転、武漢市全体の緊急動員と全国からの支援がありながら病院のベッドに空きはなく、数えきれない患者が受け入れる病院もないまま家に留まっている。明らかに1月23日の都市封鎖以前からの感染の累積によるものだ。
日本への里帰りから戻った日本人の感染比率から類推すると、武漢に10万人を超す感染者がいてもまったく不思議ではない。しかも、いくら全国の医療資源が続々と武漢に注ぎ込まれても、患者の収容が間に合わないようでは治療最適期を逸してしまい、その後に入院できても助からないかもしれない。当局発表の死亡者数は信じるに足らない。ここ数日、ネット上では多くの病人が手遅れとなり感染の診断もされないまま死んでいるという報告が見られることからも、実際とは懸け離れた数字であると分かる。
封鎖初日の震えるほどの驚き、それに続くパニック、さらに14日間の経過。理論上は14日間の隔離期間に発熱・咳の症状がなく、幸運にもウイルスの攻撃をかわしたわけだけれども、私はいささかもうれしくなかった。家には温度計がなかった。家にこもって2週間、腰や背中が痛んだ。体はすっきりせず(并不畅快)、健康には絶対の自信を持てなかった。この時点で自分がどれほど先まで生きられるのか確信をもって言える武漢人は一人もいなかっただろうと私は思う。焦りを覚えながら、私はやっとのことで健康回復を自分に命じた。免疫力こそが新型ウイルスの唯一の薬であると多くの報道が繰り返し強調していた。私たちはまさに今、まがうことない災難に直面しているが、それは天災ではない。正真正銘の(不折不扣)人災である。もしもウイルス発見初期に、つまり都市封鎖1カ月強前の12月初旬に政府がオープンで透明性の高い報道、警戒情報を出していれば、武漢の感染者数はけた外れに少なかったに違いない。武漢から流出した例の500万人の中にいた感染者を事前に病院に収容することもできただろうし、無症状で出発した者にも警戒情報を発し、ルールを決めて管理し、マスクを着用させていれば新型流行の全国への蔓延を防ぎ、世界各国の発生率も大幅に低下させることができていただろう。すでに新型肺炎で命を落とした人も、治療の甲斐なくじきにあの世に召されるだろう人も、本来は今ごろ家族、孫子とともに和気藹々と(乐融融)旧正月を楽しんでいたはずだ。それが突然、訳も分からず明暗分かれて(阴阳两隔)しまった。死者や患者の家族が今この時どんな経験をしているのか想像できるだろうか? 他人のことを我が事同然に受け止めるなどという表現は、今や吐き気を催させる。こんな人間の惨劇を、誰が我が事同然に受け止めることができようか!
なぜだ? なぜ中国はこのような人災をたびたび引き起こすのか? そう、私たちは彼らがうそをついているのを知っている。彼ら自身、自分がうそをついていることを分かっている。彼らは私たちが彼らのうそを知っていることさえ分かっている。しかし、それでも彼らはなおうそをつくだろう。かりに今回のように、私を含む、武漢人一人ひとりの身に危機がもたらされるのでなければ、私たちは、私自身を含め、とっくに欺かれ、無視され、犠牲にされる状況をごくありきたりのことと捉えていただろう(習以為常)。
それから来る日も来る日もネット上で目にしたのはすべて助けを求める声であり、家族を失った人の慟哭であり、救命の最前線にある医療スタッフの悲壮な境遇であった。圧倒的多数の人々の善良な心が基底(底色)にあるのを私は否定しない。身辺にこのような惨劇が起きると誰でも心を痛める。私も何度涙したことか。ただし――私たち一人ひとりが刻々と危険を感じているのでなければ,自分がトイレ(馬桶)を通じて、下水管を通じて、エスカレーターを通じて、生活ごみを通じて、エアロゾル(空気凝膠)を通じてウイルスに感染するのではないかと心配するだろうか。いまだ特効薬が確認されていないという状況でなければ、万一感染したら自分の免疫力を頼りになんとか乗り切ろうと思ったりするか。流行がコントロールを失い私たち一人ひとりが、私自身を含め、ウイルスに取り囲まれているのでなければ、このような強い怒りを発したりするだろうか。さらに怒りの持続を変革のための原動力、さらには実際の行動となし得るだろうか? 断じて言う、あり得ない!
2月6日深夜、「内部通報者」李文亮医師の凶報(噩耗)に接して、私は深い物思いに沈んだ。それは都市封鎖後初のまっとうな(真正的)思考だった。その夜はほとんど眠れなかった。それ以前の2週間、家に籠りっぱなしだった私は、ずっと部外者のような感じがしていた。都市封鎖の暴挙は私を震え上がらせ、この10日間は慟哭、助けを求める叫び、この上ない惨劇(惨绝人寰)が天地を覆ったが、どうやら本当に心を揺さぶった(触动)わけではなかったようだ。少なくともウイルス禍の中心にいる私を突き動かして何かをしたいという気にさせたわけではなかった。私がしたことといえば、基本的な生活を満たすために必要とされることだけだった。極力外出を控え、ウイルスに感染しないように努め、有限な医療資源によけいな負担をかけないようにし、さらに規則正しい家庭内フィットネス(居家健身)さえ始めた。もちろんウイルスには免疫力が大事だからだ。そのうえ、せいぜい3月になって暖かくなれば流行は収まるだろう、そうなったらどうやって速やかに会社を元の軌道に戻せるだろうか、などと考えていた。今から思えば、まったく恥ずかしい話だ!
2月7日早朝、徹夜で頭がぼんやりしてはいたが、私は手を尽くしてできるだけ多くの食料を調達し持久戦に打って出る準備をしなければならないと考えた。都市封鎖15日目にしてようやく真の冷静さ、すっきりとした目覚めが訪れた。中国人は忘れっぽい。私を含めて。2003年のSARSによる犠牲者は何人だったか? 事の経緯(来龍去脈)はとっくに曖昧だ。2008年の四川大地震(汶川大地震)の犠牲者は? 定かでない。遠地である上に時間的にもはるか昔だ。今回武漢で起きたコロナウイルスによる新型肺炎の流行も、人々がまだ危機にあるとはいえ、理性的に分析し今日現在確認できる情報を加味すれば最長10日から15日で、2月末ごろターニングポイント(拐点)を迎えそうだと分かる。中国人の特長からして、ショック(惊吓)からおおらかな日常(歌舞升平)への立ち直りも速い。だいたい2カ月もかかることはないはずだ。その後、このような大きな、世を震撼させた出来事であるからには、必ずや責任追及が行われるだろう。しかし、どのように責任を問うか、誰に責任を負わせるかは、もちろん最も直接的に被害を受けた私たちが決めることではない。みんなはそれを不思議とは思わない。ただ、私だけは二度とその「みんな」の中に含まれることはない。