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『私はウイルス(我是病毒)――武漢封城日記』序文

今日は李文亮博士の命日です。あっという間に5年が経過し、中国人民の忘却力がまたも証明された。このような大災害が中国国民の間に集団的な反省と内省を起こさなかったのは残念だ。他の人が何をしようとも、私は何かをしなければなりません。 2020年の武漢封鎖中に76日間アパートに閉じ込められていた間に書いた記録と考察を、今日からここで公開します。

翻訳してくれた日本の友人に感謝したいと思います。安全上の理由から、この日本人の友人の名前を明かすことはできません。

2020年2月6日午後10時すぎ、「環球時報」のSNS微博サイトに、「内部通報者」李文亮医師が午後9時30分武漢中心病院で救急処置の甲斐なく死亡したという情報が流れた。私は目を涙で潤ませながらこの情報をリツイート(転発)したが、そこに「対不起(ごめんなさい)」の3文字を書き加えた。震えるほどの驚き、胸が痛むほどの残念さと同時に私がまず感じたのは「ごめんなさい」であり、それはネット上にあっという間に湧き上がった(湧出)「彼らは李医師にお詫びしてしかるべきだ(欠)、われわれは李医師に感謝してしかるべきだ」という反応とは異なるものだった。私は中国人全体が李医師に対しお詫びしてしかるべきだと思ったのだ。なぜなら、この私を含む中国人全体が長らく無視し、仕方がないと許し、黙認し、賛美さえしたでたらめな悪体制(糟糕的恶体制)が李医師を殺したのだから。彼はわずか34歳。子ども一人、双子を宿した身重の妻、彼同様コロナウイルスに感染し治療中の両親を残して世を去った。かくのごとき惨劇は、とがった氷柱が心臓を刺し貫くように私に痛みを与え、自分がばらばらになるような感覚を与え(譲人崩潰)、この身が中国人全体の一部であることに深い慚愧の念を抱かせた。

「本日DNA検査の結果が陽性と判明。もやもやは晴れた(塵埃落定)。とうとう診断が確定した」――これは李文亮医師が2月1日に書き込んだ微博のメッセージであり、あろうことか人生最後のメッセージとなったものだ。どうして診断確定からわずか5日で世を去らねばならなかったのか? 若い世代は免疫力が強く治癒率が高いのではなかったか? それより上の世代でも少なからぬ感染者が治癒し退院しているのではないのか? どうして自身医師たるものが十分な医療資源を得られなかったのか? 適切な治療を十分に受けられずあっという間に生を終えねばならなかったのか? 私はむしろ疑念をもち始めた。李医師は治療の過程で騙されたのではないか、と。李医師は1月12日の時点ですでに発熱のため入院していたからだ。と同時に、こうも考えた。李医師は訓戒処分を受けた8人の「内部通報者」の一人で、マスコミとネットユーザーの関心を集める身、全国的な注目を集める時の人であるから、ひとたびコロナウイルス新型肺炎と診断されれば体制にとっては大きな恥辱となる。病状を意図的に隠そうとする姦計も生まれるのではないか? もしそうなら、李医師は謀殺されたことになる! 「大局こそ重要」(以大局為重)の考えに慣れきった体制を目の当たりにするとき、彼らは個人を犠牲の上に社会の安定を粉飾するのだと考えても私はいささかも暗い気持ちにならない。彼らは国の安定的な統治を維持するためとして後ろ暗い事(黒暗的事情)に手を染めたことがある。過去も現在も、そして未来も。

続いて起きた出来事は、私の猜疑を証明できないまでも、彼らの邪悪さを証明することになった。午後10時半ごろ、すなわち「環球時報」が李医師の訃報を発した1時間後、その微博上の投稿は削除された。訃報には「複数の関係者に証拠を求めたところ」(経多方求證)のような字句があったのではないか? 「環球時報」は権威ある大メディアではないか? 私は当然ながら李医師がまだ生きているから、まだ治療中であるからニュースが削除されたのであればと願った。ニュースがガセであってほしいと望んだ。奇跡が起きてほしいと。そこで私は急いで微博じゅうを検索してみた。すぐにこんなメッセージが見つかった。「ウイルス流行の内部告発者である李文亮医師はいまだに緊急治療中である。彼のために祈ろう」。このメッセージの発信者は武漢中心病院の医師だった。しかし、それを僥倖と受け止めるわけにはいかなかった。メッセージには「彼は生死の境にいる」という表現もあったからだ。私は怒りが込み上げた! 体制についての私の理解に従えば、ほとんどうなずける話である。彼らはまさに今、遺体をさいなんでいる。なんと邪悪なことか。さらに2月7日午前2時すぎ、私は中心病院から流れ出したいくつかの情報を目にした。それらの発信時間はどれも6日午後11時ごろだった。「8時半危篤(走)。無理やり挿管、生きながら責め苦を与えられる(受罪)。死して後に挿管、ECMO(体外式膜型人工肺装置)すべて試される(全上了)」

「幹部は言う。まだまだ蘇生処置を施すのだ、彼が死ぬと面倒なことになる、もう少し頑張らなければならない、たとえだめでも、一つのポーズとして。微博にうずまく憤怒は大地を揺るがすほどのものだ」「メッセージを見たとたん私はデマだと思った。もどかしく(匆忙)防護服に着替え呼吸科のICUに駆け付けると、そこで見たものは血の気のない一体の患者だった。いまだ心臓マッサージ機(心外按圧機)が打ち続け、同僚たちが周囲を取り巻いていた。ECMO? 何か意味があるのか。心肺は停止して久しい。すでに意味はないのだ……」。明らかにこれらは武漢中心病院の医師たちだ。李医師の同僚たちが情報を発信したのだ。すべてに目を通した私はソファの上で声にならず泣いた。ウィスキーをしこたま飲んで落ち着きを取り戻した私は自分に言い聞かせた。「何かしないわけにはいかない(我必须做点什么)」
 彼らが遺体をさいなんでいることを、なぜ私は想像できたのだろうか? 私は繰り返し自分に問うてみた。私が病院の幹部であったら、幹部の一人であったら、私もそのような決定をし得たであろうか? なぜ私はそれほど正しく彼らを理解しているのか? 私は突然、次のように強烈に意識するに、強く断じる(肯定)に至った――李医師を死に至らしめたのはウイルスではない。それは私であり、私たちであり、この国の一人ひとりである。ウイルスがうようよいる土壌から共に栄養を得ている私たち、一人の罪なき人を想像もつかない方法で殺すような体制を、力を合わせて構築した私たちだ。
 理性的に考えれば、今次のウイルス流行が終息するのも時間の問題だ。事後にはきっと体裁繕いの(装模作様)責任追及が行われるに違いない。いわゆる「責任を負うべき連中」が引っ立てられ、私たちは怒りの言葉を吐き出すだろう。私もきっとそういう場面にふさわしい、節度ある怒声を上げるだろう。それでも果てしなく、ということはありえない。その後は1年もたたないうちにみんなまた平穏な日々に戻る(大家又继续回到岁月静好)。さらに私たちは財貨を追い求めるレールに戻ってくったくなく(心安理得)前を向いてはばたく。誰も信じないかもしれないが、この国に生きるどの一人をとっても、このような体制にあってはいつでも犠牲者になり得るのである。生存できるか否かは幸運かどうかにかかっている。誰も信じないかもしれないが。

中国人は忘れっぽい。私が注意を促すまでもなく、中国人なら誰でも知っていることだ。ネット上ではすでにはやばやと李文亮医師の記念碑を建てようと呼びかける人がいるけれども、断言してもいい、碑の建立はあり得ない。呼びかけるだけなら少しの善意と勇気があればいい。この点ではおおよその中国人は地球上の他の人々と変わりなく善意と勇気を持ち合わせている。しかし記念碑を建てるとなると必要になってくるのはけっしてあきらめない、けっして妥協しない精神と行動だが、こちらは、私自身を含め私たちの多くが持ち合わせていないものだ。私たちは待つことに慣れ、そしてしだいに忘れる。一方、体制の彼らは一時たりとも行動を停止しない。見てほしい、私が目にしたスクリーンショットがもう一つある。「武漢市中心病院の李文亮医師が死亡した件は、厳格な規範に基づく原稿のソース(稿源)が求められる。自社原稿を用いて独断的に報道することは厳禁。ニュースのプッシュは不可。評論不可。煽り不可(不炒作)。双方向的部分については穏当で控えめな温度とし、トピックを立てることは不可。徐々にホット検索ワード(热搜)から取り除き、有害な情報(资讯)は厳しく管理する」。これは間違いなく微博のたぐいのメディアプラットフォームの内部規定だろう。この種の規定を設けることで、彼らの目標は必然的に達成できることになる。私はいささかの疑いも差し挟まない。

つゆほどの疑念も持たぬこと、黙認することはなんと恐ろしいことか! 新型コロナウイルスはすでにこれほど多くの人を殺し、その中には「内部告発者」李医師も含まれる。ウイルスの広がりと同時にもう一つの無形のウイルスが依然として自由自在に(恣意)蔓延している。私たち一人ひとりはそのウイルスと共存しているが、この種のウイルスの恐ろしさについてはまったく意識していない。一つの急性伝染病はいまだ終息せず、もう一つのウイルスはまさにいま醸成されつつあり、いつ爆発するか誰も分からない。ウイルスを取り除かない限り爆発は時間の問題だ。そもそも誰もこの種のウイルスを意識することがないのであれば、どうしてウイルス駆除が提起されるだろうか? 誰かがウイルスに意識を向けたとしても、その人が進んで「内部通報者」になりたがるだろうか? この種のたいへん強力なウイルスに対して一人の「内部通報者」で足りるだろうか?

ここ数日、武漢のネットにはこんなフレーズが出回っている。「時代の灰が一つ誰かの頭の上に落ちれば、すなわち山になる」。確かにそういうふうに言うのもいいだろう。ウイルス流行のど真ん中に身をさらす武漢人はそれぞれがいくつもの惨劇を目にし、それを我が事のように受け止めてきた(感同身受)。しかし私は心から好きにはなれない。このフレーズが一つの事実を的確に述べているにしても、それは一人ひとりの個人を無辜の、寄る辺ない被害者の位置にもう一度並べ直すことにほかならず、一人ひとりが頭を抱え涙を流したあと、心安らかに、いわゆる時代を継続させていくことになるからだ。時代というものは、私たち一人ひとりがそこに参加し作り上げていくのではないのか? 私たち一人ひとりは被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。

よろしい、私はやるべきことを決めた。まず大胆に認めよう。私たちはみな、もちろん私自身も、身の内に毒性が非常に強いウイルスを蔵している。私は潜在的な危険性を抱えた「内部通報者」たらねばならない。今次の災難を経験しようとしまいと、その後には私と同じような「内部通報者」が中国にいくばくか現れるだろう。私は始めなければならない。本書のタイトルを「私はウイルス(我是病毒)」としたのは、まず手始めに自分の身を拡大鏡で見てみて(譲)、そこから中国人全体の身に敷衍して中国独特のウイルスを残らずあらわにしようという意図からだ。さらにはウイルスを取り去る可能性と方法を模索してみたい。西洋にはこんな格言がある。「一人を救うことは全世界を救うに等しい」。私の理解するところでは、まず個人が自分を救うことが大事であり、自分を救ってこそ初めて全世界も救うに値するということだ。
 
2020年2月10日於武漢

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