見出し画像

※ネタバレあり/超長文【映画考察感想】Midsommer/ミッドサマーにおける非資本主義的コミュニティ、集団と個人、男と女など

なんだか夏至にあわせてミッドソマーが見れるようになるとかなんとか。

公式が正気じゃねえ。

以前、Twitterで大喜利されていたMidsommer/ミッドソマーをみてきたので、今更見た感想や言いたくなったことを雑多に書いてみようと思う。なぜか邦題はMidsummer/ミッドサマーなので、以後はミッドサマーで統一したい。

タイトルの通りネタバレ全開なので注意。これから見る可能性ある人はこれは見ないで楽しんできて欲しい。ぼくも怖がってたけど、序盤以外は本当に怖ければ多少めをつぶれば大丈夫だよ。

ただこれだけはいいたかったのは


山田と上田がいないTRICKだとかお祭り男がいないお祭り企画だとかのレビュー、

見るまでは面白いが、見た後は作品を矮小に感じさせるという点で突然嫌悪感がしてきた不思議。

これらの話(=大喜利)は、彼らが感じた恐怖を軽減するために必要なだけで、全く本質的ではないと思う。
それを批判するつもりはない。感想は人それぞれだ。ただ、相応しいとは思っていない。

よってこのレビューはそうした類いのものは含まないことを先にお断りしておきたい。

TRICK自体の発想は視聴前に非常にワクワク感を高めてくれたという意味でよかった。さらに筆者はTRICK世代だし毎週イッテQを欠かさず見るタイプのオタクだ。

ただ、それとこれとは話が別なのである。

画像1

ミッドサマー、おもしろかった?


これは、結論から言うと面白かったと感じる。

ただ、それは終わった後にしみじみそう思うだけで、

序盤はまじで苦痛。

シーン時代は全く怖くないのに、ダニーの泣き声があまりに人間の本能から不安をあおるようなもので、本当に序盤は「おうちかえる…」と思ったし、絶対残り2時間半耐えられないと思った。

ただ、不思議と完走できるものだし、なおかつ途中から突っ込みどころ満載で(いい意味で)完走映えする作品だと感じた。
途中からなんか笑えてくるし、余裕もできた。

というのも、ミッドソマーはホラー映画なのだが、温度感的に昔2chではやった「意味がわかると怖い話」くらいのテンション感なので、
「怖いっつーかなんつーか不穏」程度のレベルで済んでいる。

まあとはいえあまり一人で見ないほうが身のためとは思う。
筆者は同僚の人を当日に誘って弾丸で見に行ってきたが、同僚の人が隣に存在していることと、手元のジャスミンティーで自我を調節できていた気がする。

注意

※ここから先にはネタバレ

壁画

この映画は、作品冒頭に定時されるこの壁画の通りに進行する。
本を読むなら右からだが、この壁画は左から右に向かって見るものになっている。つまり、この物語は暗黒からの救済であり、孤独や悲しみからの解放へ向かって行く物語ということである。

なにこれ!いい話じゃん!!

と思いたくもなるんだが、それについては
「まあほら、、、幸せの定義って人それぞれだからさ、、、」と遠くを見ながらコメントせざるをえない。


通常ホラーでいうと上記の構成の逆、要は「安穏からの転落」だったり「希望からの絶望」を描くことが大半だから不思議なものだが、それを逆手にとった構成だからこそ、違和感=恐怖を観客に植え付けることに成功したとも言える。


あらすじ


大学生のダニー(本作の主人公)は、双極性障害を患った妹に度々振り回され、その度に恋人であるクリスチャンに依存していた。

双極性障害とは
双極性障害は、精神疾患の中でも気分障害と分類されている疾患のひとつです。うつ状態だけが起こる病気を「うつ病」といいますが、このうつ病とほとんど同じうつ状態に加え、うつ状態とは対極の躁状態も現れ、これらをくりかえす、慢性の病気です。
ー厚生労働省:
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_bipolar.html


ダニーはカウンセリングにも通っており、精神安定剤を服用するなど本人自体も不安定で、かつかなり自己肯定感が低くなっている状態=本人もうつ病のような状態だったのだろうと推測される。

ある日、ダニーには妹から「家族を連れて一緒に行く」と不審なメールをもらう。ダニーはあわててメール、電話をするが一切返事がない。

何かあったのかもしれない、
でもいつものように妹に振り回されているだけかもしれない

動揺したダニーはクリスチャンに泣きながら連絡をするが、クリスチャンはなだめながらも「いままでだってそうだったんだろう」と取り合わず、連絡を切る。


クリスチャンは彼女の前ではつとめてよい彼氏であろうとするが、友人たちの前では「半年前から別れようと思っていた」と愚痴をこぼしていた。
友人たちはそれに対して
「別れろ」「セックスの好きな子に乗り替えろ」と言いたい放題。

そんな中、警察からダニーに一本の連絡が来る。

「妹が両親を巻き添えにして、一家心中した。」

突然の家族の死に悲嘆にくれるダニー。


ちなみに、この時のダニーの泣き叫ぶ声があまりに不安を掻き立てる音で、ぼく個人が一番作中で怖いと思ったのはここだった。家族を失った悲しみ。一人で生きていかなければならない不安。ないまぜになった感情が全てこもった動物的な鳴き声である。
(さらにいえば、このとき観客は、前述のクリスチャンのことを思い出し、今後の彼女の行く末について、胸を痛めるのである)

その後、深い悲しみを負ったダニーを(紆余曲折あり)連れて、
スウェーデン奥深くにある村に入り込んだクリスチャンほか若者たちは、村の奇怪な風習に呑まれ、知らぬ間に一人ずつ消えていく。

クリスチャンは村の中で出会った美しい少女と村人たちの謀略のまま(ここを割愛すると何が何だか)、

少女に種付(ここだけ読むとエロ小説)を行い、
ダニーはそれを目撃し、涙する。

画像5

村の祭でメイクイーンになったダニーは、生贄の最後の一人を選ぶ権利を得る。最後の一人は村人か、クリスチャンか。

ダニーが選んだのはクリスチャンだった。

薬で動くことも話すこともできないまま、行きたままクマの抜け殻に全身を縫い付けられ、炎の中で目を見開いたまま燃えていくクリスチャン。

画像6

ダニーは最後そっと微笑むのだった。

画像7


序論:ミッドソマーは非資本主義システムをありのままに描いている


ミッドサマー(もうミッドサマーがいいのかミッドソマーがいいのかわからなくなってきた)の舞台となっているホルガ村は、非資本主義システムの社会を「うまく」導入した結果として描かれているように感じた。

非資本主義というとベーッシックインカムや共同体というやり方がわかりやすいように思う。とはいえ、自由経済を制限し強力な神に近い存在が人類をまとめる、というベースとなる考え方は同じでも、SF小説「1984年」ではプライベートも含めた監視社会によって人々を統制し、管理するという形式をとっているように思う。

今回のホルガ村は「1984年」のように悲観的ではない。穏やかに人間たちが人間としての個性を失うことによって一つの共同体意識に繋がっていき、群として村を存続させていくという発想だ。

では、この村自体はいいものか?悪いものか?

作品ではこの村の良し悪しの定義は一切ないが、少なくともこの映画が「ホラー映画」としてプロモーションされるのであれば、多くの人々にとってこの考え方ーー自我を失うーーということは受け入れがたいことであるのだとも言えるだろう。

ただ、同時に自我を失ったダニーが共同体に取り込まれ「救済」されるエンディングからは、「自我を失うことはそんなに嫌なこと?」というメッセージも同時に伝わってくるのだ。
私はミッドサマーを見て、これを単なる意外性のあるホラー映画として見ることも楽しいが、私たち人間にとっての自我の意味を問いかける作品としても捉えたくなった。

基本的に、自我の意味については各自の価値観でしかないので、必要かそうでないかに答えはないが、
今回はその議論に至る、作中に登場する要素と共同体についてまとめていきたい。

ポイント①村を永続的に繁栄させるために存在している掟・儀式という「非資本主義的システム」

今作のストーリーで象徴的なのは、一般社会では見られないような「儀式」やしきたりの数々である。

ただ見ているだけでは村の神秘性や団結を高めるためのルールに見えるが、これらはすべて村という共同体や群を永続的に残す上で必要なシステムになっている。

・一定年齢に到達した村人の自殺▶︎口減らし
・村の外からきた人間との性交渉▶︎近親相姦による遺伝子エラーを極力減らす
・障害児を神聖なものと崇める▶︎近親相姦によって生まれた奇形児や障害児を崇めることで、近親相姦自体をタブー化しないため
・村の外からきた人間の処刑▶︎死を身近(にし、村の掟に疑問を持たせない)
・着席などのまとまった団体行動▶︎個を喪失させ「群(むれ)」として生きることを植え付ける
・経血いりの飲み物を男性に飲ませる▶︎性交渉自体をロマンチックなものに仕上げて、抵抗感を薄れさせる

以上

資本主義に生きるぼくらがこの映画をみると混乱が生じる。

・誰かが裏で意図をひいてこの村を運営して何か利益をうんでいるんじゃ
・誰も幸せじゃないシステムをなんで村人たちはのぞんでやっているの?

など。
ぼくら資本主義社会の人間は、お金を循環させることで人と人の関係をつくり、役割分担をする。一部の人間がその舵取りをし、単純労働ほど対価が低く、社会全体の貧富の差は絶対的に存在する。ただし、人類全体でいえば、この資本主義の発展で安定的な社会が形成され、人口が増える=生物として成功しているといえる。

ただし、日本でもよく見られるカルト宗教と同様に、今回のホルガ村には資本主義が存在しない。その構造は、神や教祖という唯一神だけが頂点であり、それ以外の人間は全て等しいというものだ。金銭の授受や能力の有無での上下がない。
とはいえ人間は、エゴや個人的な感情、達成欲や満たされたい我欲で何かと競ったり上下を決めることも多い。
だからこそ、神以外は全て等しいという環境をつくるには、自我をなくすしない。結局それらを「儀式」や「しきたり」ということでオブラートに包んでの行なっているだけなのである。食事がまずいことも、全て一人の人間としての欲求が村人からは消失していることが言える。

一見すると狂気なのだが、彼らからしてみると自我をなくし、共同体として過ごすことが生存戦略なのであり、意味は通っている。

作品でもこの「個と集団」の対比を見せるやり方は多く、

画像8

この映画のポスターでさえ、集団に飛び込むダニーとクリスチャンという構図がはっきりしている

演出の中でも、集団の中で一人だけ際立つようなシーンには意味がある。

画像9

それまでは集団の中でしか語られなかった少女も、クリスチャンを誘惑し、種付行為を行う「特別なこと」の前にはこういったカットが入る

画像10

72歳の自殺の儀式でさえそうだ。

画像11

これらの表現を意図的にいれていることにより、この作品から私が受け取ったことは、続くポイントを消化してからまとめて話したいと思う。

ポイント②男女の二項対立


ミッドサマーにおいてあまりにも強く描かれている要素

それは、

もっと女性が求める恋愛=共感・理解
男性が求める恋愛=独立・性欲

という対比構造である。

画像7

明らかに序盤は女性、男性とグループを切り分けて描く形式をとっており、クリスチャン自身のすばらしい態度の切り替え(ダニーには良い彼氏、男友達の前では愚痴)も印象深い。
この対比構造は、今後も根深く描かれていくものであり、今作のテーマの一つであると言えるだろう。

とりわけ、女性的な魅力に関する描写も細かい。

村の中で華やかに踊る村の女性たちや、清純を思わせる白を中心としたワンピース。魅惑的な笑顔。
男性が思う女性の魅力がわかりやすく提示され、クリスチャンは絡め取られるように前述の種付に至るわけだ。

これら男女の役割分担を明確にしているのは全て「種の繁栄」に至る性交渉のためであり、それらをマニュアル化しているものこそが前述から続く村のしきたりだ。

それは女性を魅力的に見せるシーンがある一方で、男性が人間の男性らしさとしてよく象徴される狩猟、獲得、競争、闘争といった要素が少なめであることからも言えることだが、男性を単に種付を行う動物として扱っていることからも考えられる。

一点人間男性と動物を隔てているのは、彼らが育った人間社会で身につけられた倫理観だけであり、それらを剥がすために村に伝わる儀式があるわけだ。

ポイント③ しきたりや儀式外で村のシステムを存続させたがる人間たちがいる

画像11

ポイント1〜2では、ホルガ村を成り立たせるベースとしての発想と、生き物としての人間を増やし存続する男女の機能について話をしたが、
3では「村のシステムを存続させる人間たち」についてまとめたい。

●主人公たちを村に引き寄せた ペレ
【作中での役割行動例】
・もともと卒論のテーマから村に興味をもっていたジョシュを経由して仲間を数人村に引き込むことに成功
・村に引き込んでからは自分の担当チームからは誰一人も村の外に出ないよう、「こういうものだから」と儀式について丁寧に伝える

ミッドサマーの中でクミッドサマーの中でクリスチャンの種付や生贄などの仕組みに大きく関わったペレの行動だけを見ていると大した手際だが、
あえてこの行動には描かれていない外の部分を考察していきたい。

ペレはなぜわざわざ村から遠く離れた大学に進学したのか?

大きな目的は村の外からの遺伝子をいれること。国内ではホルガ村の話がオープンでないにしろ伝わる懸念がある。行方不明が出るにしても遠く国内のほうが都合がいい。
ただ、そうすると起こりうる問題は、大学や外の国、社会で触れる多くの娯楽によって、ホルガ村で培った価値観などが薄れないか?という点である。まずい食事ということ一つとっても、外の世界の食水準に感動するものではないのだろうか・・・?ある程度「宗教上の理由で●●していけない」などの戒律でそれらを防ぐことができたとしても、限界がある。

そう考えると、ペレは外の社会も、自分たちの環境も、客観的に見た上でホルガ村の仕組みを受け入れているのではないだろうか。

実際、クリスチャンに対して(ディレクアターズカット版で)種付という村の儀式の前に「儀式を見るだけはできない」とはなし「儀式を研究対象として見たいなら種付に強力しろ」とすることで、彼の罪悪感を薄めるようなことをいう住人がいる。

こうした発想はおそらく村の外に出て行ったことがない限り出てこないものだ。そして、その上で村のシステムに共感し、それに共感している人間がいるということが言えるのではないだろうか。

結論:ミッドサマーって何が怖いの?


この映画が真にホラーたるゆえんはこの、「全員が薬で狂っているわけではなく、自我を薄める社会を受け入れているというシーンを見せていることにあるのではないだろうか。計画的にそうしたシステムという蟻地獄へ導いた人間たちや、仕組みが、私をぞっとさせるのだ。

ホルガ村の仕組みは、自我を持って生きること、よりよい暮らし、より高い評価や労働対価を得るために働く資本主義社会に生きる我々と正反対の発想だ。人間の自我を薄め、口減らしに村人を自害させ、子孫繁栄のために吐き気を催すような(陰毛入りのパイはみんなのトラウマ)儀式を行うことは全て村の存続のために必要な仕組みであって、生理的に受け入れられるかどうかは文化の違いなだけだ。

今までの襲われる、終われる、怖いではなく、
価値観があわない知的生命体、社会との接触。

これがミッドサマーの怖さだ。
思えば現実社会でも、価値観の合わない、考えのわからない人間が一番恐ろしかったりする。
新感覚ホラーといいつつ、このホラーは、我々のすぐ身近に転がっている。

よろしければサポートお願いします!いただいたご支援はダーマペンでの治療費などにあてます。