欲求が人生の糧なのだと気付かなかった
何かを欲しがらないと人はまともに生きていけないのだと、今になって、というより今さっき気付いた。
きっかけはブログで名前を出した某ゲームの説明が、私の認識とあっているかWikipediaで確かめた時。
「はじめは感情のない少女だが接するにつれて感情を出すようになり、要求もしてくるようになる」
ただのゲームキャラクター紹介の一文にハッとした。
私は子供の頃から欲しがることをしなかった。
親に何かを欲しがっても与えられたことは無く、親の機嫌が悪ければ殴られた。平手でなく拳や灰皿が飛んできた。
食事などは普通以上に出てきたが、それは親が食事と酒くらいしか楽しみがない人間だったからだ。おもちゃは誕生日にしか与えられず、突発的に全く望んでいない図鑑やアトラス地図を与えられた。
普段、お菓子やジュース類は親が自分用に買ったものを少し分け与えられるだけだった。私がポテトチップスやチョコレートを食べたのは、高校生になって自分で買うようになってからだった。
親は自分が住む地元を嫌い、田舎なのに近所と交流も無かった。自分が生まれた町を、親が馬鹿にしコケ下ろすのを聞いて私は育った。
ただでさえとてつもない田舎でアルバイト先などない。生まれ育った町なのに同級生以外の知り合いもおらず、手伝いのあても無い。収入は親がパチンコで大勝した時のみ渡される小遣いだけ。
子供の頃から何かを欲しがることをやめていたからそれでも過ごせた。
困るのはそんな自分にも家に遊びに来てくれる友達がいて、彼等に何も出すことが出来なかったこと。いつも遊びに来る友達の親に「なにかお菓子くらい出してあげて」と言われても、愛想笑いですみませんと言うしかなかった。子供の頃から、人と話す時には常に愛想笑いがでるようになっていた。
小遣いを使う先はたまにお菓子か、ほとんどの場合はゲームソフトだった。ゲームは何も出来ない無為な人生を潰すのに最適で、何ヶ月か時間を潰せた後は、売り払って少し手元に戻すことができた。
今思えば、この「あるものでのやり繰り」と、「他に何も出来ないから、ゲームで時間を潰す生活」が固定されてしまった時点で、私の人生は完全に終わった。
※注
念の為に書いておきますが、これは安直なゲーム批判ではありません。ゲームをすればその分勉強時間は減っても、勉強時間と勉強で得る学力は比例しないはず。ゲームをやることによって子供が受ける影響はゲームの内容によります。
人を銃で撃つゲームが近年子供に一番人気なジャンルになっていることは危惧すべきですが、ゲームには芸術性、音楽性、計画性などを育むジャンルも沢山あることも事実です。どんなゲームを子供にやらせるかは、親が内容を理解して管理すべきです。
話を戻して…
こうして私は何かを得ようとすることをしなくなった。
わずかな給料でやり繰りし、何も出来ずに人生が過ぎていく。だんだんと老いていく手を、他人のような目で見ていた。
世の中は欲求がエネルギーとなって回っていて、望めば欲しいものは手に入る。そのことに気付いていなかった。
多くの人が、何かをする為、何かを得るために人生を送る。その中で、様々な感情と共に様々な経験をしていくのを、遠目から眺めているだけだった。
人生が終盤に入っても、世の人が20歳前後には手にしているもの、色々な体験や感情を、私はほとんど持っていない。
望めば欲しいものは手に入る。大それたものは不明だが、世の人が大概みんな持っているものなら、欲しがれば手に入る。
それは何年か前に東京に行った時、あの渦巻く人々が生み出す熱量を見て、ほんの一瞬だけ気づくことが出来た。だがその気づきの光は、きっかけになる前に消えた。
今日、改めてそれに気付いたが、もう今からではどうにもならない。
例え今から欲しいものに向かって生きるようになっても、それは本来若い時に手に入れるべき物や経験で、今になっては手に入らない。
そんなことに気付いた話。