アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.5 (5)
This Could Be the Night
ロネッツの"Be My Baby"が与えた衝撃は、そのチャートでの順位以上に大きいものでした。なかでも、ブライアン・ウィルソンがその曲を始めて聴いた時に受けたインパクトは絶大で、その日の詳細はいくつか語られていますが、カーラジオから"Be My Baby"が流れだすと、車を道路脇に停めて、曲に聴き入ったといいます。あるところでは、そのまま車でゴールド・スター・スタジオに向かい、スペクターに会ったとありますが、それはちょっと違うかなと思います。いずれにしても、状況的には、ブライアンはアルバム『サーファー・ガール』を仕上げて、発売日を待っている時期でした。
話はちょっと戻りますが、62年冬のある日、ゲーリー・アッシャーはブライアンに3人の少女を紹介しました。ゲーリー・アッシャーのガールフレンドのジンジャー・ブレイク、その従姉妹のマリリン・ローヴェルと妹のダイアン・ローヴェルの3人です。マリリンは出会った頃14歳で、彼女が16歳になった時、ブライアンと結婚しています。
ブライアンはキャピトル・レコードのニック・ベネットに話を持っていき、彼女らのレコード・デビューが決まりました。グループ名はハニーズと決まり、ブライアンが作曲、プロデュースを担当しました。ブライアンは彼女らをクリスタルズに見立てていたのかもしれません。
レコーディング・セッションには、ハル・ブレイン、グレン・キャンベル、レオン・ラッセルらのレッキング・クルーのメンバーを呼んで、スペクターになりきったかのようにスタジオワークに集中して、デビュー・シングル "Shoot the Curl / Surfin' Down the Swanee River"を作りましたが、結果はでませんでした。ただ、この時の経験を糧にして、『サーファー・ガール』のレコーディングを進めていきました。使用するスタジオも、キャピトル・タワーのスタジオから、ウェスタン・レコーダーズに変えることを主張して、その意志を通しました。そして、その年にもう1枚出さねばならないアルバム、『リトル・デュース・クーペ』に取り掛かっていました。
フィル・スペクターはその頃、フィレス・レコードの集大成となるようなプロジェクトを進めていました。63年11月22日にリリース予定のクリスマス・アルバムです。『A Christmas Gift For You From Philles Records』と題されたアルバムのレコーディングは、9月から10月にかけて行われ、ヴェロニカ・ベネット、ダーレン・ラブ、ララ・ブルックス、ボビー・シーン、シェールらを中心に進められました。
ブライアン・ウィルソンは、そのレコーディング・セッションにスペクターから声が掛かりました。ブライアンはてっきりレコーディング見学だと思ってゴールド・スター・スタジオに向かいましたが、スペクターは「サンタが町にやってくる」のピアノ演奏を依頼しました。ブライアンは楽譜の初見が苦手で、セッション・メンバーの演奏についていけず、4テイク目でスペクターから外れるように言われました。ブライアンは目標であるスペクターから受けた仕打ちは屈辱的でしたが、スペクターはブライアンのことをライバル視していた証ともいえます。
クリスマス・スタンダード曲をスペクター・サウンドに料理したアルバムは、それぞれの歌い手が今までヒットさせてきた楽曲のアレンジをうまく取り入れた仕上がりで、ポップス史上に残る素晴らしい作品だとは思いますが、アルバムラストの「きよしこの夜」でのスペクターのスピーチだけは、彼の自己顕示欲の表れであり、今まで様々なスペクターの要求に応えてきたエンジニアのラリー・レヴィンは、とことん疲れきっていて、このレコーディングを最後に離れていきました。
64年1月、ビーチボーイズは新しいアルバムのレコーディングに入りました。この時から、使用するスタジオはウェスタン・レコーダーズに加えて、ゴールド・スター・スタジオも使うようになりました。アルバムに先駆けてリリースされたシングル"Fun, Fun, Fun"は全米5位のヒットで、アルバム『シャット・ダウン・ヴォリューム2』は3月2日リリースされました。アルバムに収録の"Don't Worry Baby"は、ロネッツの"Be My Baby"に影響を受けて作られた楽曲です。
64年5月11日、アルバム『オール・サマー・ロング』の先行シングルとして"I Get Around"が"Don't Worry Baby"とのカップリングで発売され、7月4日付けチャートで、ビーチボーイズ初の全米No.1を獲得しました。7月13日に発売されたアルバムも、チャート4位と好成績でした。
丁度その頃、ブライアン・ウィルソンは"Don't Hurt My Little Sister"をダーレン・ラブに向けて作り、スペクターに渡しています。実は以前に、ブライアンはロネッツに"Don't Worry Baby"を歌って欲しくて、スペクターに渡しましたが、断られた経緯がありました。しかし、今回はスペクターはブライアンの曲を受け入れました。
ただ、それはブライアンの望んでいたものとは違い、タイトルは"Things Are Changing (For The Better)"に変えられ、ブロッサムズのバージョンは、「アメリカにおける白人と黒人を含む少数民族との間の雇用機会の不平等を正す」キャンペーン・ソングとして、66年にラジオ局配布用に4000枚プレスされています。ジェイ&ジ・アメリカンズやシュープリームスのバージョンも残されています。ブライアンは結局自分達の65年の傑作アルバム『ビーチボーイズ・トゥデイ』に収録しました。
話をクリスマスに戻すと、63年フィレスのクリスマス・アルバムがリリースされた頃、ブライアン・ウィルソンは自作のクリスマス・ソングをシングル・リリースしています。"Little Saint Nick"は明らかにフィル・スペクターのクリスマス・アルバムからヒントを得て作られた曲ですが、全米43位を記録しました。翌64年には、ビーチボーイズのクリスマス・アルバムをリリース、オリジナル5曲とスタンダード7曲で、ビーチボーイズらしいドライブ感と美しいコーラスワークが楽しめる作品で、アルバムチャートも全米6位とヒットしました。
フィル・スペクターがスタジオで作り出したサウンドは、ブライアン・ウィルソンに衝撃を与え、ブライアンはスペクターに憧れ、目標として曲作りに励み、時には挫折し、成長していきました。ブライアンがスペクターに提示した2曲、"Don't Worry Baby"と"Don't Hurt My Little Sister"は、ブライアンの手で録音され、ビーチボーイズの曲として傑作になりました。
ブライアン・ウィルソンにとって休息の日々は、そう簡単には訪れてくれません。新しい構図が浮かび上がってきています。ビートルズ VS ビーチボーイズが、この後繰り返すことになっていきます。
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