功利主義まとめ④積極的功利主義と消極的功利主義

古典的功利主義=積極的功利主義

 ベンサムやミルが示したように、古典的功利主義においては、幸福とは快楽がより多く苦痛がより少ない状態であると定式化されている。すなわち、「快楽-苦痛」の総和が最大化することを善いとするのである。このような快楽の最大化を志向する立場を「積極的功利主義」という。

消極的功利主義

 これに対して、快楽の最大化ではなく、苦痛の最小化を志向する立場がある。これを「消極的功利主義」という。積極的功利主義が「最大幸福社会」を志向するのに対して、消極的功利主義は「最小不幸社会」を志向するのである。このような考えは、次のような根拠に基づくものである。すなわち、何が快楽であるかは人によってさまざまであるのに対して、何が苦痛かについては快楽ほど多様ではない。例えば病気・貧困・失業・拷問などは誰にとっても苦痛である。それゆえ、社会制度を構築するにあたっては、人によってさまざまである快楽ではなく、人々においてある程度まで共通する苦痛に焦点をあて、苦痛の最小化を志向するべきだと考えるのである。

消極的功利主義批判

 このような「最小不幸社会」を志向する消極的功利主義は、一見して妥当であるかに思われるが、この立場に対しては次のような批判がある。

 病気・貧困・失業・拷問などの苦痛は確かにこれを除去し最小化されるべきである。しかし一方で、失恋の痛みなどは除去し最小化されるべきものとはいえない。失恋の痛みを味合わせないために、恋の相手の意思を無視して、告白を断る権利を否定する、などということはできないのである。そうすると、ここには最小化すべき苦痛とそうではない苦痛があるということになる。しかし、消極的功利主義には、これらの苦痛を区分する指標が内在していない。これらを区分するためには、功利主義とは別個の論理が用意されなければならないはずである、と批判されるのである。

 また、功利主義の総和主義に対して、「分配的正義」に無関心である、との批判がなされるのと同様に、消極的功利主義についても、多数者の不幸の除去のために一部の少数者に不幸を押し付けることを肯定することになる、との批判もありうるであろう。

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