パレスチナ問題まとめ②

1970年 ヨルダン内戦
 1970年、ヨルダン軍と、ヨルダンを拠点としていたパレスチナ人ゲリラが衝突した。この内戦はヨルダン軍の勝利に終わり、アラファト議長はレバノンへ亡命した。

1973年 第四次中東戦争・第一次石油危機
 1973年、エジプトとシリアがイスラエルを奇襲攻撃し、第四次中東戦争が勃発した。アラブ諸国は、イスラエルを支援するアメリカへの石油の輸出を禁止し、第一次石油危機が発生した。

1979年 キャンプ・デービッドの合意
 1979年、エジプトとイスラエルは、アメリカの仲介によりキャンプ・デービッドで合意、平和条約を締結した。エジプトはイスラエルを国として承認し、イスラエルはエジプトにシナイ半島を返還した。

1982年 レバノン侵攻
 1982年、イスラエルはレバノンに侵攻し、アラファト率いるゲリラを包囲した。アラファトはこれによりチュニジアに亡命した。
 レバノン南部はイスラエルに占拠された。イスラム教シーア派の人々がイランの協力を得てヘズボッラー(神の党・ヒズボラ)を組織し、これに抵抗した。ヘズボッラーの抵抗により、イスラエルは2000年までにレバノン南部から兵を撤退させることになる。

1987年 第一次インティファーダ
 1987年、パレスチナ占領地において、パレスチナ人がイスラエルの入植に対する抵抗運動が自然発生的に起こった。これを第一次インティファーダ(大衆蜂起)という。第一次インティファーダにより、ムスリム同胞団がイスラム組織ハマスとして活動を始め支持を広げていった。ハマスはPLOとは立場を異にしており、イスラエルを解体し、パレスチナ全土にイスラム教国家を樹立することを掲げた。

1992年 ラビンの首相就任
 1992年、イスラエルでラビンが首相に就任した。ラビンはアラファト側近と交渉し、合意の道を模索した。

1993年 オスロ合意
 1993年、ノルウェーのオスロにおいて、イスラエルとアラファトが合意をし、その調印式がホワイトハウスで行われた。この合意により、イスラエルとPLOの相互承認が確認され、また、ガザ地区とヨルダン川西岸地区のエリコにおいて、パレスチナ人の自治が認められた。

1995年 ラビン暗殺
 1995年、ラビンが暗殺された。犯人はユダヤ人であった。これによりイスラエルとパレスチナの和平は前進しなくなった。

2000年 シャロンのエルサレム入りと第二次インティファーダ
 2000年、イスラエルの政治家シャロンがエルサレムにあるイスラム教の聖地(エルサレム神殿であった神殿の丘の岩のドーム)に入り、エルサレムがイスラエルの支配下にあることを誇示した。これに対してパレスチナ人たちが占領地全域で抗議行動をはじめ、第二次インティファーダがはじまった。

2001年 シャロンの首相就任
 2001年、イスラエルにおいてシャロンが首相に就任した。シャロンは、ヨルダン川西岸地区に検問所や壁を築き、ユダヤ人入植地とパレスチナ人地域の隔離を図るなどの政策をとった。

2004年 アラファト議長、死去
 2004年、PLOのアラファト議長が死去し、部下のマハムード・アッバースがその後継者となった。

2006年 ハマスの過半数獲得
 2006年、パレスチナ立法評議会(PLC)において、正当な選挙によってハマスが過半数を獲得した。しかし、国際社会はハマスはテロ組織であるとして、これを黙殺した。

2008年 ガザ攻撃
 2008年12月、イスラエルはガザに侵攻した。

2009年 アメリカで、オバマ大統領就任
      イスラエルで、ネタニアフ首相就任(第2次ネタニアフ政権)


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