ウクライナ危機(2014年)の概要

ウクライナ危機(2014年)の概要

1991年 2月21日 
ウクライナ共和国最高会議がクリミア自治共和国を復活させると宣言

8月24日 
ウクライナ、独立宣言。

12月25日 
ソ連崩壊。独立国家共同体(CIS)へと分裂(ウクライナはCISのオブザーバー参加)。クリミア自治共和国はウクライナが統治。 

1994年7月10日 
ウクライナ第2代大統領選でレオニード・クチマ勝利。EU・NATOへの加盟を視野に入れる政策をとった。同年、EUと「パートナーシップおよび協力協定(PCA)」、NATOと「平和のためのパートナーシップ(PfP)」を締結。

1997年5月
 「ロシア・ウクライナ友好協力条約」締結。ロシアは、クリミア半島のセヴァストポリ軍港がウクライナ領であることが確認されたうえで、2017年まで同港にロシア海軍を駐留させる権利を得る。

2004年11月21日 
ウクライナ第3代大統領選でヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(親ロシア派)が勝利。しかし、不正選挙の疑いで市民の抗議行動が起こる(いわゆる「オレンジ革命」)

12月26日 
超法規的措置により再選挙。ヴィクトル・ユシチェンコ(親EU派)が第3代大統領となる。同人はNATO加盟を掲げ、ロシアが主導する旧ソ連諸国内の経済統合構想「共通経済空間(EEP)」から距離を置く。しかし、内部対立やロシアと天然ガス価格をめぐって対立。支持を失っていく。

2006年 5月23日 
キエフで開催された参加国首脳会談で、GUAMを常設の国際機関へと発展させることを決定。

2009年
EUは、旧ソ連諸国をENP(欧州近隣諸国政策)に加え、東方パートナーシップ(EaPと呼ばれる)をスタートさせた

2010年 2月 7日 
ウクライナ第4代大統領選で、前回再投票の末敗れたヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(親ロシア派)が勝利。同人は、外交政策の指針「対外政策ドクトリン」で「非ブロック主義」を明記し、NATO加盟方針を正式に取り下げた。

2010年 4月22日
ヤヌコーヴィチは、ロシアと「ハルキウ条約」を締結し、クリミア半島のセヴァストーポリ海軍基地のロシアに対する租借期限を25年延長させ、2042年までロシア海軍の駐留が可能となった。

2011年
翌年に大統領選を控えていたプーチンが、EEP等を基礎として「ユーラシア経済連合(EEU)」結成の構想を発表
 
2012年 7月 3日 
ヤヌコーヴィチ政権下のウクライナで国家言語政策基本法制定。ウクライナ語以外の一定の言語を公的な場所で使用してもよいものとし、ウクライナ人民族主義者の反発を招いた。

2013年11月21日 
ウクライナがEUとの連合協定(EaP)への調印を直前になって拒否。西部で反ヤヌコーヴィチの抗議運動がおこる。「ユーロマイダン革命」と呼ばれる。ヤヌコーヴィチは、これを機動部隊を投入してり抑え込もうとしたが、火に油を注ぐ結果になる。ネオナチ集団「スヴァボーダ(自由)」や極右政党「右派セクター」を先頭に、投石等の暴力的な傾向が強まり、政情不安が激化。

2014年 2月21日 
政情不安を受け、ヤヌコーヴィチは野党及びEU代表との間で危機解決に向けた合意案に調印せさわるを得なくなった。しかし、それでも極右勢力は収まらず、武装闘争を再開した。

2月22日 
ウクライナ最高議会は、ヤヌコーヴィチ大統領の解任を決議(但し憲法上、議会に大統領解任の権限はない)。ヤヌコーヴィチは逃亡し、ロシアに亡命した。

2月23日 
ウクライナ最高議会が、国家言語政策基本法の廃止を宣言
同日、プーチンがクリミア併合作戦を決定した

2月27日 
ウクライナ暫定政権成立。親EU派のオレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相を承認。
同日、ウクライナ領のクリミア半島の行政機構を覆面武装した男たちが占拠。当初ロシアは関与を否定していたが、後に関与を認める。
さらに同日、クリミア議会がキエフの座員低政府を非難する声明を発表し、中央政府からの自治権拡大の賛否を問う住民投票の実施を採決した。これに対してウクライナは非難で応答した。

3月 1日
クリミア自治共和国の首相セルゲイ・アクショーノフが、プーチンに治安回復のための支援を要請。ロシアはクリミア半島での限定的軍事行動を表明。

3月 3日 
一方、ウクライナ東部のドネツクで、親ロシア派のデモ隊が州庁舎に侵入するも、治安部隊に排除される。

3月 6日 
クリミア自治共和国議会がロシア編入案を全会一致で可決

3月15日
国連安保理において、クリミアでの住民投票を無効とする決議案が採決されたが、ロシアが拒否権を行使したため廃案となった。

3月16日 
クリミア自治共和国とセヴァストーポリ特別市が、住民投票でロシア編入を支持

3月17日 
プーチンがクリミア自治共和国を独立国として承認する大統領令に署名

3月18日 
クリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市のロシア編入を定める条約の調印

3月30日
ロシア最高会議が、ハルキウ条約等の破棄を可決。
ロシアによるクリミア半島の併合作戦が完結した。

4月 7日 
再び、親ロシア派のデモ隊がドネツク州庁舎に突入し、同庁舎を占拠した

4月22日
アメリカのバイデン副大統領(当時)がウクライナの首都キエフを訪問。ウクライナへの支援強化を約束した。

5月24日
ロシア系住民の多いドネツク州とルガンスク州が合同で「ノヴォロシア人民共和国連邦」の結成条約に調印。なお、ノヴォロシアとは新ロシアの意味。

5月25日
ウクライナ第5代大統領選でペトロ・ポロシェンコが勝利。ドネツク州とルガンスク州の独立を認めず。これによりウクライナ東部で内戦ぼっ発。
 
6月27日 
ウクライナはグルジア・モルドバと共にEUとの連合協定に署名。

7月17日 
ウクライナでマレーシア航空旅客機が地対空ミサイルで撃墜される事故が起こる。新ロシア派、反ロシア派いずれの犯行か不明だが、新ロシア派によるものと言われている。

9月 5日 
ウクライナは内線で敗北を重ね、ドンバス地域(ウクライナ東部)における停戦などを内容とする第1次ミンスク協定を受け入れる。しかし、小競り合いは収まらず。

2015年1月初め  
ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の分離主義勢力がウクライナ政府の支配地域に対して新たな攻撃を開始。これによりミンスク協定による停戦は崩壊した。

2月11日 
ミンスク協定の履行を保障する第二次ミンスク協定が締結される。欧州安全保障協力機構(OSCE)の監督の下、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツがこの協定に署名した。にもかかわらず、現在に至るまで戦闘の停止は実現できなかった。

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