アフガニスタンの現代史まとめ
※ 勉強中のメモです。誤りが多く含まれている可能性があります。
20世紀に入り、アフガニスタン王室は、イスラム教国であったアフガニスタンの西欧型近代化を進めようとした。
1928年、国王アマヌラー・ハーンは、イスラムの服装規範を排除し、女性にも近代教育を受けさせる政策を始めるなど、近代化を推し進めようとした。しかし、こういった政策は、保守的な聖職者を中心とするイスラム主義勢力と対立し、反乱軍が組織された。そして、国王はイタリアへの亡命に追い込まれることとなってしまった。
この反乱を鎮めたのは、ナディール・カーンという軍司令の一人だった。カーンは、国王となり、イスラム法を基礎とする法体系をとることを決定する一方、西洋的な憲法も作ったため、イスラム法と西洋法が矛盾する形で立ち並ぶ法体系となった。
カーンの次の国王であるザヒール・シャーは、50年代以降、西欧化を推し進め、役所での女性職員の採用などの試みがなされた。また、王族女性がベールを被らず公の場に立つなどの試みもなされた。しかし、こういった試みは、聖職者などによって、反イスラムであるとして攻撃された。
王室による近代化政策は、アフガニスタンに「大学生」を生み出した。これらの学生は、政治運動を始めた。
社会主義の学者や学生たちは、「アフガニスタン人民民主党」(PDPA)という政党を作り、国王の改革を促進することを訴えた。この政党はソ連の支持を受けて作られたものである。(※なぜ社会主義者が西洋的近代化を進めようとする改革を推進しようとしたの???)
1973年、王室内でクーデターが起き、国王が追放され、国王の従兄弟だったムハンマド・ダウドが王政を廃止し、自ら大統領となった。ダウドは当初、PDPAと組んで政権を作った。しかし、ソ連の介入を避けるため、PDPAのメンバーを要職から外すようになった。
1978年、ダウドの動きを警戒したソ連は、PDPAにクーデターを起こさせ、ダウドを殺害させた。これにより、アフガニスタンを社会主義国とすることを目指すPDPAの新政権が誕生した。
しかし、PDPAの政策は、イスラム教の伝統に反するとして反発を受け、聖職者らはジハードを宣言した。これにより、聖戦が始まった。
1979年6月、アフガニスタン政権内部でクーデターが起き、アミンが首相となり、ソ連の傀儡から脱却しようとした。(※wikipediaの記述と矛盾している?アミンは宗教弾圧しムジャヘディンが蜂起した?)
これに対してソ連は、1979年12月にアフガニスタンに侵攻し、アミンを殺害し、バブラク・カルマルをトップに据えた。このようなアフガニスタン侵攻に対して、ムジャヘディン(聖戦士)が聖戦として対抗した。ムジャヘディンを支援していたのはパキスタンであり、そのパキスタンの背後にはアメリカがいた。冷戦下にあったため、アメリカはソ連によるアフガニスタン侵攻に危機感を募らせていたが、ベトナム戦争からわずか4年しか経っておらず直接的に戦闘することは忌避されたため、ソ連とムジャヘディンを戦わせようとしたのである。社会主義国家であるソ連は、宗教を人々を堕落させるものとして無神論を唱えていたため、ムジャヘディンの戦いは、これに抗するイスラム復興運動としての戦いであった。イスラム教国各国では、イスラム教徒の若者から志願兵を募り、これをアメリカのCIAが訓練した。これに協力し、イスラム聖戦への志願兵を募るための事務所を中東諸国に設立し、CIAから武器の提供を受け軍事訓練事業を手掛けたのがビンラディンだった。
このアフガニスタン紛争は1989年まで、10年にわたって繰り広げられた。
1989年にソ連がアフガニスタンから撤退した後、アフガニスタンではムジャヘディンによる内戦が発生した。これはパキスタンが意図的に誘発したものである。パキスタンはムジャヘディンを7つのグループに統合し、一本化はしなかった。これは、アフガニスタン人自身による政権ができると、パキスタンの介入が困難になるという考えによるものである。そのために、ムジャヘディンの対立構造を作り上げたのである。
1990年にソ連が崩壊したことによりソ連から独立した中央アジアの国々には、石油や天然ガスが埋蔵されていた。アメリカは、これらの資源を確保するためにパイプラインを必要とした。このパイプラインのルートとしては、①ロシアルート、②イランルート、③アフガニスタンルートの3つが考えられた。しかし、冷戦が終了したとはいえロシアとの信頼関係はなく、また、イランは1979年のイスラム革命により反米主義となっていた。そこで、アメリカとしてはアフガニスタンルートを開拓する必要があった。アメリカはパキスタンに対して、内戦状態にあるアフガニスタンの平定と、パイプラインのアフガニスタンルートの開拓を持ち掛けた。パキスタンは、この計画にタリバンを利用した。自ら企図したムジャヘディンの内部対立構造を、自らが主導したタリバンを使って終わらせようとしたのである。
アフガニスタンの内戦により難民がパキスタンに押し寄せた。パキスタンの難民キャンプで神学校に学び育った学生と学者たちは、ムジャヘディンの内戦からアフガニスタンを解放したいとする運動を始めていた。これがタリバン(「学生たち」という意味)である。
1996年、タリバンは首都カブールを攻め落とし、政権の座に就いた。アメリカの意図とは裏腹に、タリバンが目指したのは、アフガニスタンを純粋なイスラム国家にすることだった。ただし、それはこの時点では反米的なものではなかった。タリバンはアフガニスタンにおいて厳格なイスラム教信仰に基づく生活を強要したが、アメリカがこれを非難することはなかった。アフガニスタンの平定は、アメリカの望みにかなうものだったためである。
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