功利主義まとめ⑦行為功利主義・規則功利主義・二層理論・動機功利主義

行為功利主義

 古典的功利主義は、事の是非を「行為」によって効用が最大化されるか否かという点で評価する。すなわち、「行為」の効用に着目するのである。これを「行為功利主義」という。

行為功利主義批判

 行為功利主義は、上記のように当該行為による効用の最大化を志向するため、例えばいじめ行為などであっても、それが社会の効用を増大させるかぎりにおいてを正当化してしまう。
 また、約束を守ることと破ることを比較して、後者のほうが前者よりも効用が大きい場合に、約束を破ることを正当化してしまうと批判される。

規則功利主義

 規則功利主義は、まず、規則を制定するに際して、その「規則」によって効用が最大化されるか否かを問題とする。そのうえで、個々の行為の評価は、このような「規則」に合致しているか否かによって行う。すなわち、規則制定段階と行為評価段階の二段階によって評価するのである。また、規則制定段階では功利主義によって、行為評価段階では義務論(規則に従っているか)によって評価するものであるともいえる。その結果、規則功利主義において「行為」は、それが規則に合致しているか否かという点において評価されるにすぎないことになる。
 
 ここで行為功利主義と規則功利主義の違いについて整理すると、行為功利主義と規則功利主義は、効用の最大化という原理の対象が異なっているのであり、前者は「行為」に適用するのに対して、後者は「規則」に適用するという違いがある。

規則功利主義批判

 規則功利主義に対しては、それは功利主義の名に値するか、という批判がある。例えば、深夜通行の途絶えた交差点で信号無視をしてよいか、という問題について、規則功利主義は、例え信号無視が社会に不効用を与えず、本人の効用を増大させるものであるとしても、信号を守らなければならない、すなわち規則を遵守しなければならないとする。
 しかしこのような結論は、規則に対し効用に還元できない価値を見出しているにほかならず、効用最大化という功利主義の根本原理に反しているのではないか、という疑問である。

二層理論

 上記の行為功利主義と規則功利主義を統合する「二層理論」という考え方がある。これは、以下のようなものである。
 まず、日常的にしたがっている「直観レベル」では直観的規則(われわれの通常の道徳的思考)を受け入れそれを行為の基礎とする(規則功利主義的)。しかし、直観的規則が衝突するような例外的な場面では、「批判レベル」へと移行し、功利原理を行為の基礎とする(行為功利主義的)。

動機功利主義

 動機功利主義は、規則功利主義と同様に、古典的功利主義の難点を克服しようとして提唱された考え方である。
 動機功利主義においては、功利原理を「動機」の評価に用いるという考え方である。動機功利主義からは、社会の幸福の最大化に資するような動機に基づいた行為であれば、たとえその行為が実際に社会の幸福そのものの最大化につながらなかったとしても正しいものとみなされることになる。

 このような動機功利主義は、以下のように理由づけられる。
 第1に、古典的功利主義では、「行為」による幸福(効用)最大化のみが評価され、友情や愛情といった「動機」は道徳的に評価されないことになるが、これはわれわれの直感に反するというものである。
 第2に、「幸福のパラドクス」が示すように、幸福そのものを直接追求するとかえって幸福を遠ざけてしまうため、友情や愛情といった幸福に資する「動機」を評価したほうが、結果的に社会の幸福を最大化する。

 私見としては、以下のような疑問がある。
 まず、動機の複合性を見落としているのではないかという疑問がある。動機は常に単一のものに帰することができるものではなく、様々な動機がごちゃまぜになって一つの行為が導かれるのではないか(少なくともそのような場合がありうるのではないか)、という疑問である。
 また、不当な動機に基づくが、実際には社会の効用を増大させる行為がなされた場合、動機功利主義はこれを正しい行為であるととらえうるのであろうか、という疑問もある。

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