功利主義まとめ⑤快楽功利主義と選好功利主義
快楽功利主義
功利主義は「最大多数の最大幸福」を指針として行為せよ、とする。そして、ここにいう「幸福」とは、前述(功利主義まとめ①)したように、ベンサムによれば「快楽」を指すものとされる(快楽説)。このような快楽説に基づく功利主義を「快楽功利主義」という。
快楽功利主義批判
快楽功利主義に対しては、以下のような批判がある。
まず、快楽は、個人間比較を正確に行う方法がないと批判される。すなわち、A・B2つの選択肢があるとして、Aを選択すれば甲の快楽が上昇し、反面乙の苦痛が上昇するとする。また、Bを選択すれば甲の苦痛が上昇し、乙の快楽が上昇するとする。しかし、甲や乙の快楽や苦痛を正確に測定し比較する方法はないのではないか、という批判である。
また、幸福(効用=utility)は序数で表すことはできても、基数で表すことはできない、と批判される。これは、効用は順序で表すことはできても、数値で表すことはできない、という意味である。快楽功利主義は快楽の数値化を前提としており実行可能性がない、と批判されるのである。
さらに、そもそも幸福とは快楽なのか、という根本的批判がある。ロバート・ノージックは、「経験機械」という思考実験を用い、快楽説では経験機械につながれた人生を善いものとしてとらえることになるが、実際にはわれわれは快楽だけでなく、現実的な経験を味わいながら生きることを望んでいるとして、「幸福=快楽」という定式を批判している。
選好功利主義
上記のような快楽功利主義に対する批判から、「選好功利主義」が提唱されるに至った。
選好功利主義は、「幸福(効用)=快楽」としてとらえるのではなく、「幸福(効用)=選好充足」としてとらえるものである。選好充足とは、本人の欲求や希望が満たされることを意味する。また、複数の選択肢のうちいずれかを望んでいてそれが満たされている状態であるとも説明される。心理的満足ではなく、選好が実現されることを重視するのである。
選好功利主義においては、効用の基数ではなく効用の序数が確保できれば十分であり、また、効用の個人間比較の問題を同一個人内の効用比較の問題に置き換えることができ、さらに経験機械の問題についても経験機械につながれないほうが選好が充足されるとの結論を導くことも可能となるため、上記のような快楽功利主義の難点を克服できると考えられる。
選好功利主義批判
上記のような選好功利主義には以下のような批判がある。
まず、われわれの選好の充足の実現はどのような場合にも価値があるといえるのだろうか、という批判がある。殺人の選好が充足されることを善ということはできないであろう。そうであれば、選好充足が善だと考えるのではなく、善だからこそ選好に値するというべきではないのかという批判である。
また、個人的選好の場合であればともかく、外的選好(自分自身ではなく他人が経験する事態に関わる選好)の場合、選好功利主義では社会的偏見が温存されることになる、との批判がある。すなわち、経験する他人たる少数者の負の選好が、経験しない自己たる多数者の偏見に基づく正の選好によって凌駕されてしまうという批判である。
さらに、これは快楽的功利主義にも選好功利主義にもむけられる批判であるが、前述(功利主義まとめ③)したように、長期的困窮状態に置かれている人々の「適応的選好形成」に鑑みれば、同人たちが感じる快楽や選好充足をそのまま評価することはできない、評価すべきでないという批判がある。
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