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京街道を歩く 0 プロローグ     京街道とは?

京街道とは、大阪から京都へ向かう街道で大坂街道* とも呼ばれる。
東海道は「日本橋から京都の三条大橋までの53 次」というのが一般的で、この部分が江戸時代のはじめに整備されたが、東海道の延長として大坂に向かう道として53 番目の大津宿の先に、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられ、大阪北浜近くの高麗橋までがゴールとなった。このためこの4宿を足して「東海道57 次」と呼ばれることもあるという。

三月にはじめて興味を抱いた京街道を、さっそく翌四月の二日間で歩く

関東で暮らす者には耳慣れないルートであったが、昨年夏から東海道を歩いてきた筆者も、行程が京に近付くにつれ次第に興味がわいてきて、本年三月に京都までの53 次が完結した余勢で、さっそく翌月の土日の休日二日間でこの京街道を歩いてみることにした。
今回は大阪から東に向かうことにして、大阪側の起点の高麗橋(江戸時代は京橋)から守口、枚方、淀から伏見、さらに大津街道を進んで東海道との分岐の髭茶屋追分までの、一泊二日で56.3km が目標。

iPhone 一台の気ままな撮影歩き

旅の道連れは、最低限の荷物を入れたデイパックとiPhone 一台(iPhone13)。
これから掲載する写真はすべてそのiPhone による、ほぼ歩きながらや立ち止まりの気楽な撮影である。(何しろ時間内に歩くのがせいいっぱい)
三月にはじめて興味を抱いた京街道を、さっそく翌四月の二日間で歩き、余韻冷めやらぬ五月に編集、そしてさらに翌月まとめた、スピード感重視の写真紀行。
写真の仕事に携わる端くれとして、この気楽な撮影旅にいささかの躊躇はあるが、今回はその勢いと楽しさを感じ取っていただければ幸いである。

さらに詳しく 京街道とは

京街道(概念図)

京街道の起源は奈良時代より存在する古道であったそうで、1594 年(文禄3 年)に伏見城 築造に着手した豊臣秀吉が、大阪から伏見への最短ルートとして毛利家に命じて淀川左岸に「文禄堤」を整備し、後に京街道と名を変えたという。  江戸時代に入り京に向かう東海道(53 次)に続いて、江戸方から大阪に向かう京都を通らな いルートとして、新たに4 宿が整備され大阪までの57 次が完成した。  大津から東海道の逢坂の関を越えた後、山科に入ったところの髭茶屋追分で京都・三条大橋 へ向かう道と分かれ、山科盆地を小野まで下り、勧修寺から稲荷山の南麓を抜けて伏見宿に至 る。以下、淀宿、枚方宿、守口宿を経て大阪に至るが、この道は参勤交代の経路としても用いられ、 幕府には西国大名を上洛させない狙いもあったという。  伏見~大阪までは淀川沿いに舟運が発達し「三十石舟」など各種の舟が行き交い、旅人にも 多く利用された。川の下りを利用した伏見→大阪までは半日程度、流れに逆らい時間のかかる 京への上りは夜行舟もあったという。  明治期に入り国道が整備され京都-大阪間の国道(旧京阪国道)も伏見を通らないルートが 選択されたが、淀堤・伏見街道を経るルートに沿っては、鉄道の京阪本線が敷設された。行程の大半を淀川左岸を走るこの路線に沿って、あたかも連れ添うように往く京街道。 どちらかというと、海岸沿いの自然を感じながら進むイメージの濃い東海道と異なり、沿線の 街の魅力と川と水の歴史をゆっくり感じながら歩く京街道は、一味違う魅力と安らぎをも与え てくれるかのようだ。

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