辻愛沙子に大して抱いた強烈な嫌悪感は嫉妬から来るものだ


2日前、辻愛沙子さんを批判するツイートを見かけた。

彼はある記事の彼女の発言に対して意見を述べていた。

記事の内容自体は、読んだけれどカタカナが多くてよくわからなかったから、私はそこに是非を下すことはできなかった。

問題はその後のリプライだった。

辻さんは彼に対して「これは記者が書いたもので、私の言葉ではない。事前にチェックはできていない。記事に対して自分も違和感があったが報道の慣例なので仕方ない」といった旨の説明をしていたのだ。

ちょっと報道を齧っていた身として、彼女の稚拙な言い訳は格好のネタだった。

かねてよりZ世代と自らを名乗るような若者集団を浅学でうすら寒いと決めつけ、軽蔑していた私は、生き生きして彼女への批判をこめた自分の意見を練った。

翌朝起きてみると、批判ツイートをした氏は、その顛末を文章にまとめていた。
私は自分の感じた違和感が氏と相違ないことに快心の笑みを浮かべた。

その日はコロナのワクチンの副反応で何もできずに横たわっているだけの日だった。

夜。何もしていないことに対するストレスが徐々に蓄積され、胸がなんとなく塞ぎ込んだ。

私はそういうなんとなく落ち込んでいることへの耐性が異様に低い。

なんとなくをなんとなくにしておくのが嫌で、原因を探し、さらにネガティブな気持ちになるのはよくあることだ。

そしてそれは大抵、自分の容姿に対するコンプレックスに行き着くのだ。

つい先ほどまで辻さんという自分よりもはるかに活躍している若き女性の生み出した小さな論理の穴を、鼻息を荒くして突き、悦に浸っていた私は、打って変わって醜形恐怖症の精神異常者になった。

本気で全ての女性が自分より美しいことに悩むのだ。
他の女の子のかわいく写っている写真を見て心が痛む。
同じように醜さをコンプレックスにしている女性のブログを読んで慰めにする。
過去、なぜ自分がここまで自分を醜いと思うように至ったのか、トラウマをわざわざ引き出してきて記憶を辿る。
そしていかに自分が辛いのかをツイッターに書き込む。
書き散らすうちに少しずつ気持ちは落ち着いてくる。

少し落ち着いてきた時、辻愛沙子のことを思い出した。
私はなぜこの2日間、彼女のちょっとした落ち度に対してこんなにも固執したのか。

結論、嫉妬なのだ。
彼女は批判をされながらも社会で評価され、大きな仕事をしている。
認めたくないけれど、悔しいけれど、顔もやっぱりかわいい。
そんな彼女には遠く及ばないのに、月とスッポンレベルの乖離具合なのに、私はなぜか一丁前に彼女と同等だと思い込み、彼女の見せた隙に対して外野から一生懸命文句を言ったのだ。
だって本当は私だって認められたいし。
もっと成功したいって夢を見てしまう。

それを実現している彼女が羨ましくて、羨ましくて、仕方ない。

彼女を羨ましがっているうちは彼女を凌駕することなんて到底できない。
悪口は嫉妬羨望に由来するものだ。
そのエネルギーを自分の幸せのために使おう。
そうすることでしか彼女に対抗する意見を世の中に届けることはできない。
世の中が間違っていると思うなら、力なき批判をするのではなくそれに物言う資格のある立場を手に入れなければならない。
そのためには、まず、自己研鑽するしかないのだ。
彼女と同様、目の前のやるべきことに向き合い成果をあげるしかない。
そしてきっとそれが達成できた頃には、辻愛沙子なんて、どうでも良くなっているに違いない。

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