社会ってそういうモンじゃない?
うーん、語りたいことがあった気がするんだけど、なぜか書こうとすると、何も浮かんでこない。
頭の中では、いろんな考えや言葉で溢れかえっているのに、言語化ができない。いや、言語化はできているのだ。文章化ができないのだ。
noteに書こうとすると、やっぱり形に見える文章だから、ちゃんと書かなきゃと思ってしまう。一行目はどう始まって、一番言いたいことまでにどうやって向かうのか、それをある程度分かりやすい文章にすることが、とても難しい。
自分がよく考えを巡らせている時は、職場のMさんから愚痴を聞いた後だ。Mさんの言うことは、同じ仕事を担当しているが故に、確かにそうだよな、と思う部分もある。しかし、それはMさんの個人的な思想では?と思うこともしばしばある。
例えば、正社員もっと仕事しろ論とか。気持ちは分かる。与えられた立場に身合う責任感を持って仕事をするのは、社会人として当たり前だと思う。
ただ、同時にこれも真実だーー当たり前のことができない人は存在する。
障がいがあるとかないとか関係なく、人間は得てして不完全な生き物だ。自分が当たり前だと思っていることが、別の人にとってはそうではないのも、また当たり前なのだ。
社会通念(常識や法律、規則)に、多くの人間は従う。人は他人と共にでないと生きられない存在だから、他人にある程度迎合したり、話を合わせて仲間だと思ってもらおうと行動する。
しかし、これもまた全ての人には当てはまらないのだ。人は、ヒトと一括りにされるには、あまりに多様である。こんなに狭く小さな一つの組織の中でも、自分の常識が通用しない宇宙人は存在するのだから。
これがまた人間の面倒臭いところでもあり、面白いところでもある。仮に自分の常識が何の苦労もなく通じる他人ばかりがいる世界があるとしよう。自分と同じ考えしか持っていない相手との対話ーー楽しいだろうか?自分の常識でしか生み出せないものしか存在しない世界ーー恐ろしく虚しいだろう。
こんな世界が楽しいのは、せいぜい一週間といったところだろう。ある程度この心地よさを享受してしまえば、またあの混沌とした刺激を求めるだろう。
つまり、仕事の愚痴が出るくらい他に考えることがなく、平和だってことだ。要は脳が退屈しているのだ。脳は刺激がないとダメになっていく。だから、自分にとって刺激となるもの=自分の常識が通じない相手に、あえて注目してしまうのだ。
自分にとって魅力的で刺激的なものが他にあれば、たまたま近くに生息している宇宙人には、さほど興味が湧かないだろう。
おわり。