ストーンズ、ザッパ、文章の書き方
音楽家のフランク・ザッパと哲学者のデイヴィド・ルイスは、僕のなかで昔からなぜかその作家性が結びついている。十年ほど前に出版した『分析哲学講義』にはその作家性を取り込もうと意図したが、これはひとには伝わりづらい話。
二十歳のころ、頑張って貯めた三万円弱をもって東京に行き、フランク・ザッパの十二枚組ライブ盤セット("On Stage" シリーズ)を買ったことがあったが、今や、それは全部サブスクで聴ける。でも、あのころの僕と同じくらい熱心にあれを聴き続けるのは、サブスクの時代には難しいんじゃないだろうか?
ローリング・ストーンズとフランク・ザッパの音楽には、その生成についての傾向性に、対照的なところがある。前者は、スタジオで実際に出てしまった音を混沌としたままに取りまとめて、具体のほうから抽象に至る。後者は、実際に音を出す前にも頭のなかに構造物ができており、抽象のほうから具体に至る。
だから、ストーンズの場合、ライブはライブで素晴らしいものの、"Jumpin' Jack Flash" のような代表曲でさえスタジオ盤で聴ける魔術的な混沌がライブで再現されることはなく、いわば別物として演奏されている。"Can't You Hear Me Knocking" のような、特別なグルーブやフレーズが録れてしまった曲については、なおさらだ。
これに対してザッパのほうは、ライブ音源をスタジオ録音にも多用していることから分かるように――たとえば名曲の "Inca Roads" ――ライブとスタジオの隔たりが小さい。これは、ザッパの歴代のバンド・メンバーが超絶技巧であったこと以上に、ザッパの音楽に対する概念的なコントロール力とコントロール欲の強さによる。
なぜ急にこんな話をしたのかというと、哲学の文章を書くときにもストーンズ的な書き方とザッパ的な書き方があり、それぞれの良さがあるということをちょっと言ってみたくなったからだ。おそらく、哲学以外の文章についても(小説なども含めて)同じことが言えるのだろうが、僕には哲学の文章のことしか、よく分からない。
(この記事は https://twitter.com/aoymtko のツイートに加筆したもの。)