死者の時間と他者の時間

(「PAPER SKY」2007年4月号に掲載)

自分の死は、自分にとっては自分の死だが、他者にとっては他者の死である。しかし、だからといって、自分の死と他者の死が同じように理解できるわけではない。自分の死と他者の死は、まったく違うあり方をしている。

話を進めるきっかけとして、ジャンケレヴィッチという哲学者の考えを紹介しよう。彼は死を、三つの人称別に分類している。この分類はさまざまな著作で引かれているため、ジャンケレヴィッチの名は知らなくとも、その内容は知っているかもしれない。

三人称(彼/彼女)の死は、だれか特定の人物の死ではなく、匿名的な他者の死である。そこでは、どんな人物が死んだかということは問題にされず、死者数の統計データのように、すべての死は交換可能なものとして扱われる。三人称の死は、別れの体験とは無縁の死である。

他方、二人称(あなた)の死は、具体的な他者、とりわけ身近な人々の死を意味する。生活において、われわれに突きつけられるのは二人称の死であり、それにともなう別れである。死んでいくのは自分ではないが、二人称の死を通じてわれわれは、一人称(私)の死に接近する。

とはいえ二人称の死は、けっして一人称の死と重なりはしない。一人称の死、つまり自分自身の死は語ることができない(だれも死んだことなどないのだから)。一人称の死がどのようなものかを、生者はまったく知ることができない。

ここから先の話は、ジャンケレヴィッチの分類を借りて、私が勝手に考えたものだ。それはジャンケレヴィッチの哲学と重なる部分もあるだろうし、そうでない部分もあるだろう。

われわれのふだんの生活においては、一人称および二人称の死と、三人称の死のあいだに線が引かれる。二人称の死を死の中心に据え、一人称の死を「他者にとっての二人称の死」と考えるかぎり、三人称の死は誤解を恐れずに言えば、死と呼ぶに値しない。事実、そのような感覚をもつことが、戦争のような行為においても、医療のような行為においても求められる場合がある。

しかし上記の線引きは、もっぱら別れに目を向けた線引きであり、死のあり方そのものの線引きではない。自分が死ぬとはどのようなことかを経験の側から知ろうとするとき、二人称の死は、三人称の死と同じく役に立たない。一人称の死とは、特殊な種類の経験ではなく、経験が不在となることであり、その意味でいかなる種類の経験とも似ていない。ここでは、一人称の死とその他の死のあいだに、越えることのできない線が引かれる。

一人称の死は、通常の意味での経験ではないにもかかわらず、自分の経験の果てにあるものとして理解されなければならない。このとき助けになるものがあるとすれば、それは睡眠という現象であろう。人間がもし睡眠を取らない生物だったら、自分が死ぬことを理解できただろうか。これは有意義な問いかけである。なぜなら、睡眠という現象のほかに、経験が時間的に不在であることを自覚する日常的経験はないからだ。一人称の死は、他者との別れという観点のみからでは捉えきれず、経験の時間的な不在をいかに理解するかという問題を抱えている。

睡眠を手がかりに死を考えるなど、死を矮小化しているように感じるかもしれない。だがそれは、われわれが睡眠に馴染んでおり、そして睡眠の後に目覚めることを当然だと考えているからである。「人間がもし睡眠を取らない生物だったら」という想定を本気で掘り下げてみてほしい。この想定の世界においては、睡眠によって経験が不在となることを人間は理解できないかもしれないし、たとえ理解できたとしても、それは恐ろしい現象とみなされるだろう(まるで、われわれにとっての死のように)。

人称別の死に関して、私は二つの線引きを示した。ひとつは「別れ」の線引きであり、他方は「不在」の線引きである。この二つの線引きは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというわけではない。これらはどちらも正しいのであり、さらにはこの二つの線引きを共有してこそ、はじめて死は理解されるとも言える。最後に、私がなぜそう考えるのかを簡単に説明しておこう。

経験の不在に注目するかぎり、ある人物の誕生以前とその死後に、違いを見出すことはできない。たとえば、私が生まれる前にも私が死んだ後にも、私の経験は不在である。だがこのことから、私の誕生以前にも「私は死んでいた」とは言われない。私が死んでいることは、私の経験(および肉体)が不在であることと同じではない。では、誕生以前の不在と、死後の不在とを区別するものは何だろうか。

ここにおいて二人称の死が、一人称の死と交錯する。それはまた、「別れ」と「不在」との交錯でもある。私の死後には、私の誕生以前とは異なり、私についての二人称の死を経験する人々が残されるだろう。つまり私の不在を、別れとして受け止める人々が残されるだろう。奇妙な言い方かもしれないが、このことによって、私は本当に死ぬことができる。残された他者の存在が、私の不在を単なる無から、死へと変えてくれるわけだ。

こうした見方に立つならば、人間は死後、永遠に死に続けるわけではない。なぜなら、死者の不在に対して二人称の死を見出す人々もまた、やがては消え去ってしまうからだ。こうして死者は無に帰る。すなわち、人間は無から生まれ、他者の時間のなかで死者となるが、二人称の他者が消え去ることで、ふたたび無へと帰るのである。

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