知られざるクリスマスの起源
知られざるクリスマスの起源
1998年12月
クリスマスは日本の師走の風物詩として欠かせない。だが日本には、人口の3%ほどしかキリスト教徒はいない。だからクリスマスを祝っているのはキリスト教徒でもなんでもない人々である。しかし、そのような現象は日本だけのことではなく、世界で広く共通したことであろう。
しかし実は、クリスマスの歴史は浅く、キリスト教とは関係のない行事なのである。
子供たちにおなじみのサンタクロースはメイド・イン・USAで、「アメリカヌス」という正式な名字まで持っている。元々の本籍と生息場所は百貨店であったが、今では本籍が何処であるのかすら忘れてしまうほど、至る所に住み着いている。
要するに、今日世界中で繰り広げられるようになったクリスマスというのは、もともと宗教行事とは関係なく、アメリカが奴隷制農業国家から近代資本制国家へと転換していく過程で生み落とされていった「歳末商戦」のための祭であった。
だから、宗教のいかんにかかわらず、どこにでも浸透していくことができたのであった。以下にその歴史の足跡をたどってみたい。
商人パワーが「暦」を変更させた
1939年、アメリカの経済がまだ大恐慌に苦しんでいた時、たまたま11月に木曜日が5回あり、感謝祭は11月30日と予定されていた。
だがこの祭日の祝賀を、伝統に従って最終木曜日に行うことは、この国の商人にとって望ましくなかった。景気はぐずついていたので、彼らは可能な限り多くの刺激を必要とした。
それまでの慣例では「クリスマス売り出しシーズン」は、感謝祭が済むまで始まらないことになっていた。ニューヨーク、デトロイト、その他の都市では、クリスマス売り出しシーズンは通常、クリスマス的要素の混ざった感謝祭パレードが、その開始の合図となっていた。
そうであれば、パレードさえ行われればいいわけで、「感謝祭を1週間早めて11月23日の木曜日にするべきだ」という者が登場した。企業心旺盛なオハイオの百貨店経営者、フレッド・ラザルス2世であった。
彼は、クリスマス売り出しシーズンを1週間長くできるように、「感謝祭を1週間早めて11月23日の木曜日にするべきだ」と提案した。あとはこの「饗宴」に、注意深く宗教的儀式を加えていけばいいだけなのだ。
「オハイオ州小売商人連盟」や、シンシナティの『エンクワイア』紙が、この提案を支持した。そしてワシントンにおいて、ルーズベルト大統領がそれを歓迎し、「1939年の感謝祭は11月23日にする」と布告した。
半世紀前の「標準時間」の設定と同様に、ルーズベルト大統領による「暦の変更」は、一部の人々から「神聖な秩序に対する干渉である」と批判されはしたが、「消費の饗宴」の魔力にあらがえる者などあろうはずがない。
2~3年のうちに、すべての州が歩調をそろえて「第4木曜日とともに第5木曜日も感謝祭の休日とし、連邦政府の方式とは違った独自のやり方を続けること」を明らかにした。
国民の祝祭日は各州が決める
他の国々とは異なり、合衆国が「国民の祝祭日」を法律によって確定していないことは、アメリカの生活のなかでもほとんど知られていない。法律による祝祭日の制定は各州に委ねられているのだ。
祝祭日に関する大統領の唯一の権限は、国民の関心を引きつけるために布告を出し、コロンビア地区とその他の地域の連邦職員にそれを適用することのみである。初めて「感謝祭に関する布告」を発したのはリンカーン大統領で、1863年のことだった。その後、各州それぞれ別個の法律によって、法定祝祭日が設けられた。
ルーズベルト大統領による感謝祭の変更は、アメリカのクリスマスとの関連において、重要な意味を有していた。この、昔からの祝祭日である「感謝祭」は、国民の慣習として成長してきたに過ぎなかったが、商人を軸とした「消費の祭典」へと変容を遂げていたからであった。
クリスマスがキリスト教徒の宗教行事であるならば、少なくとも日本やタイでは、キリスト教徒がひっそりと行事をとりおこなう程度に過ぎなかったであろう。しかし、隠れキリシタンがクリスマスを祝ったはずはない。クリスマスが日本に輸入されたのは、明治維新以降だったからだ。
クリスマスが大衆化したのは、戦後高度成長の流れに乗ってであった。つまり、日本におけるクリスマスの歴史というのは、まだ40年も経っていない。
仏教国タイでもバンコクなどは、12月になると国王の誕生日を祝う行事と重ねて、年々クリスマスの飾り付けが派手になっていったのも、80年代後半の急激な消費経済の膨張を背景としてであった。
昨年、タイ国王が異例とも言える「行事は華美にならないように」と呼びかけたことは、アジアの「成長神話」崩壊の象徴であった。しかし、今年はアジア大会景気に煽られた国内的な盛り上がりと連動したことから、まるで「神話崩壊」がウソのようだ。
とはいえ来年も再び、タイでも結構盛り上がるものと思われる。なぜかというと、来年は「国王生誕72周年」の年である。「72」というのは干支の6巡目に当たり、どうやら大変めでたいらしい。お祭り好きのタイ人が放っておくはずがない。
そして今年は「来年そのめでたい72周年を迎える、その前の年」ということで、来年を祝って盛大に祝うという。どんなに経済が崩壊しようと、とにかくタイ人は「めでたいことが大好き」なのだ。
清教徒はクリスマスを宗教的脅威ととらえた
話をアメリカに戻そう。
1659年、清教徒のマサチューセッツ総会議は「誰であれ、労働を休んだり、ご馳走をしたり、その他の方法でクリスマスなどを祝っているのが見いだされた場合、違反行為1件につき5シリングの罰金を科す」という法律を制定した。
このように、初期のニューイングランドにおける清教徒の眼には、クリスマスは純粋なキリスト教精神に対する脅威と映っていた。「カトリック教の偶像崇拝」とクリスマスが結びつくことをを恐れたのだ。
1681年までに、彼らはこの法律を廃止できるほどに「カトリック教」に対して安心感を抱いたが、まだこの祝日に儀式的な意味をもたせることを恐れていた。
その後2世紀の間に、クリスマスは「アメリカ化」したが、それでもなお、大がかりな宗教的儀式をともなわず、商業上の意味もほとんどない、単なる「民衆の祝日」という状態にとどまっていた。
例えば、1841年12月のニューヨーク『トリビューン』紙を見返しても,クリスマス・シーズンが来たからといって、紙面上には何も特別なことは認められない。華やかなクリスマスの広告も見当たらず、いつもと変わらぬ紙面を繰り返しているだけだ。
贈り物にふれた広告がたまにあっても、それは「クリスマスと新年の贈り物」と表現されていた。サンタクロースは、まだクリスマスの舞台に登場していなかった。
それが南北戦争の頃から、人々が陽気に騒ぐだけといった、従来の祝祭に変化が生じてきた。1867年12月24日は、『メーシー百貨店』が真夜中まで営業した最初のクリスマス・イヴとなった。6000万ドルの売り上げがあり、これは1日の売り上げとしては新記録であった。
1874年にメーシーは、初めてショーウインドーに、人形などクリスマスのための特別の陳列をはじめ、販売の増進を図り、これ以後ずっとクリスマスには毎年必ずショーウインドーに特別の陳列がおこなわれた。他の百貨店も、クリスマスまでの2週間は、深夜まで営業するようになった。
こうして12月は、小売業者にとって最大のかき入れ時となり始めた。それでもなお「クリスマスの開発」は十分に進んでおらず、1880年になってもクリスマス・ツリーの装飾品の製造業者は、『ウルワース』に25ドル分の商品を仕入れさせようとして、説得に苦労したほどだった。
とはいえ、その後数年のうちに、ウルワースのクリスマス・ツリー装飾品の注文高は、この製造業者からの分だけで1年あたり80万ドルに達した。そして、続く半世紀間に、彼は多数の業者をひきつれ、注文高は2500万ドルにのぼることになる。
かきいれ時だ!売れ残りをさばけ!
1891年12月、ウルワースは各店の総支配人に、次のように指示した。
「12月はわれわれの収穫期である。収穫をあげるのだ。諸君の店に祝祭日の飾り付けをぶらさげなさい。おそらくクリスマス・ツリーをショーウインドーにたてた方がいいでしょう。店をいつもと違ったように飾りなさい」
「この時期は『ステッカー』(なかなか売れない商品のこと)をさばく絶好のチャンスなのです。ふだん売れないものでも、この興奮につつまれた時期には売れるのです。壊れたおもちゃや人形も毎日全部修繕しなさい」
1899年、ウルワースのクリスマスの売り上げは50万ドルに達した。この重大な時期にストライキが起こったりするのを避けるため、ウルワースは「クリスマス特別賞与」の制度を導入した。これが「年末ボーナス」の元祖であった。
通信販売会社は、クリスマス用の特別カタログを発行し始めた。1939年のクリスマス・シーズンに、『モンゴメリー・ワード』会社は、広告部門のひとりの従業員が作った物語詩「赤鼻トナカイのルドルフ」を240万部、無料で配布した。ジーン・オートリーが吹き込んだこの歌のレコードは素晴らしい売れ行きを示し、ベストセラーとなった。
視覚に訴えるタイプの広告は、一般に広く普及するようになる前に、クリスマスにはすでに行われていた。新聞広告は12月にピークに達し、クリスマスの後は急激に減少した。
1910年頃には、この国の書物の年間発行数の3分の1以上が、クリスマス前の6週間に市場に出されるようになっていた。20世紀中頃には、年間の宝石売り上げ高全体の4分の1が、12月に集中するようになった。
20世紀に入ると、年とともに、クリスマスは何にもましてショッピングのシーズンとなった。最初、儀礼的なものとして行われていた贈り物は、事実上、強制的な力を持つまでになった。
「クリスマス特別賞与」は、やがて「当然のこととみなされて感謝されなくなり」、従業員が当てにしている報酬の一部となった。
サンタクロース「アメリカヌス」の登場
アメリカのクリスマスのもっとも顕著な特徴はサンタクロースで、これは旧世界(ヨーロッパ・アジア)のものとは似ても似つかぬほど、急速に変容していった。
4世紀に、小アジア(アナトリアとも言う、西アジアの西端に位置する半島。)のミラに聖ニコラスという主教が実在した。彼はロシアの守護聖者であり、また「船員、盗賊、処女ならびに子供たちの保護者」とみなされる聖人であった。「船員と盗賊」が含まれているのが興味深いが、「近代」以前、盗賊の活動と商売が明確に分離していなかったことを意味している。
余談になるが、現代法体系の外側に位置している「国際的銀行家」の集団、およびその“手下”であるヘッジファンドの活動にとって、ビジネスと略奪との分離が明確でないのも、当時とさして変わらない。
伝説によれば、「聖ニコラスは、3人の貧しい処女が貞操を売らなくてはならなくなったのを知って、3晩連続して窓からカネを投げ入れ、彼女たちを救った」とのことである。合衆国では、聖ニコラスは早くから民話によく出てくる、親しみ深い人物になっていた。
彼がアメリカの文学作品に最初に登場したのは、ワシントン・アーヴィングの『ニューヨークのニッカーポッカー(オランダ系ニューヨーク人)の歴史』(1809年)であった。この小説のなかで、聖ニコラスは馬車で空を旅してまわっており、その他の特徴のいくつかを与えられ始めていた。
アメリカのサンタクロースの、丸々と太った陽気な物腰の白いヒゲを生やした姿は、トマス・ナストが1863年に「バーパーズ・ウィークリー」誌に掲載し始めた一連のクリスマスの絵に由来している。
19世紀末までに、ナストが描いたサンタクロースに対する「信仰」は、子供たちの純真さと大人たちの暖かい愛情とを示すシンボルとなった。サンタは「小さい腕白ものに宝物を運んでくる」子供たちのためのお祭り騒ぎ(サターネイリア)の守護神となるやいなや、全国的な消費のお祭り騒ぎの守護神へと祭り上げられた。
こうして百貨店は、「サンタクロース・アメリカヌス」のうってつけの生息地となった。彼は、この祝祭日の主要な舞台を教会から百貨店に移す原動力となった。
1914年までに「サンタクロース連盟」なるものが組織され、ニューヨークに本部をおき、「サンタクロースに対する子供たちの信仰を維持すること」を目的として掲げていた。広範な要求に応じて「本物の」サンタクロースのための「学校」までが、ニューヨーク州アルビヨンに設立された。
最初の学校のカリキュラムには、サンタクロースの歴史の授業、サンタクロース用の着付け方、ヒゲの付け方、子供の扱い方、その他の特別な技術が含まれていた。「サンタの手伝い」と呼ばれる会社も設立され、特別の行事があると、熟練したサンタクロースを貸し出した。
サンタを非難する者は法廷侮辱罪
1948年にボストン市議会は「どの街角にもサンタがおり、子供たちが不思議に思い始めている」というある議員の苦情を取り上げて協議し、市長に対し「1949年には市内にただひとりのサンタしか許可せず、このサンタを、歴史的なボストン・コモン公園に配置するよう」正式に要請した。
ミシガン州のある貯蓄銀行が1949年に「サンタクロースなどはいない。働け、稼げ、貯蓄せよ」という看板を出した時、親たちの間から抗議の叫びがあがった。裁判官は判事席からサンタを弁護するために冗談めかした意見を表明し、サンタを非難した人々に法廷侮辱罪の判決を言い渡した。
勇敢にも、サンタクロースをアメリカの悪ふざけの大きな伝統の脈絡のなかでとらえようとする人々も、少数だが存在した。
国民の神話に関する新しい権威である精神病学者は、サンタクロースの問題を軽くあしらうことはしなかった。ある者は厳かに「サンタクロースを信ずる子供は、すべて思考能力に欠陥があり、それは永久に治らない」と宣言し、サンタの神話は親の立場の不安定性を示す症状である、と診断を下す者もいた。
しかし、サンタクロースへの「信仰」は広く弁護され、「ええ、サンタクロースは本当にいますよ」というセンチメンタルな論説は、不可知論的アメリカ人の信念の古典的な宣言となった。
ユダヤ人も「消費の饗宴」に妥協していった
「クリスマス・ツリー」もまた特別なアメリカ的性格を備え、「祝賀用カード」とともにクリスマス・シーズンの重要な産業となった。1948年頃には、合衆国で年間およそ2800万本のクリスマス・ツリーが売られていた。10万エーカーの土地がその生産に使われ、生産高は年間5000万ドルに達した。
1923年、大統領がホワイトハウスの芝生に立てられたクリスマス・ツリーに明かりを点ずる行為を始めた時、それは「公式行事」に格上げされた。その後,木の価格の上昇、火事の危険性、森林の保護への関心の増大などが重なり、プラスチック製で幾度も使える合成クリスマス・ツリーの市場が、新たに作り出された。
アメリカ人は、この全国的な「消費の饗宴」に誰もが参加できるよう、宗教上の問題を抹消する巧妙な方法をも見いだした。
1946年に「アメリカ・ラビニカル協会」が、学校の授業でクリスマス・キャロルを歌うのは宗教の自由の侵害であると抗議する一方で、ユダヤ人自身この問題を「解決」するのを助けた。
彼らは、歴史的にはユダヤ教徒のあまり重要でない祭りにすぎなかった「ハヌカー」を格上げした。ハヌカーを、贈り物をする日が8日間ある、一種の「ユダヤ教徒のクリスマス」にしたのであった。