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Peace Piece

上海出張中の大晦日の夜、僕はふとした思いつきでゲイマッサージの予約を取った。特に意味はなかった。何か特別な予定があるわけでも、誰かと過ごす気力があったわけでもない。ただ、カレンダーの端が切り取られるその日が、他の364日とは少し違うものに思えたからだ。

店は思った以上にこぢんまりとしていて、控えめな明かりが温かみを演出していた。前払いを済ませると、無駄のない手つきのスタッフが僕を施術室へ案内した。部屋の中では穏やかなピアノジャズが流れていて、「 Bill Evans、Peace Piece 」と僕は思ったが、声に出すことはなかった。

施術を担当する彼は、「タツヤ」と日本語名を名乗った。若干40代に差し掛かったかどうかという顔立ちで、穏やかさと落ち着きを兼ね備えていた。彼の手が背中に触れた瞬間、僕はその手の暖かさに、ただ目を閉じるほかなかった。

Please take a deep breath.

彼の柔らかな声に促され、僕はゆっくりと息を吸い、吐き出した。空気が身体の中を巡り、固くなっていた部分を少しずつほぐしていく。施術が進むうちに、僕の意識は次第に遠のいていった。それは睡眠とも違う、不思議な感覚だった。

そして次に目を開けたとき、ジャズの音色は変わらず部屋に漂っていたが、何かが決定的に違っている気がした。どこがどうとは説明ができないのだけれど…

ドウですか?comfort?

彼が優しく問いかけた。だが、僕は答えられなかった。部屋の壁にかかった時計が0時を示しているのを見たとき、僕の中で何かがパチンと弾ける音を立てた。

Happy New Year.

彼が微笑んだ。その笑顔に何の違和感もないはずなのに、僕の心臓はなぜか大きく跳ねた。

施術を終え、店を出ると、街は新年特有の静けさに包まれていた。人影は少なく、かじかむ手をポケットに入れながら、僕は外灘のホテルへの帰り道を歩き始めた。

途中の交差点で、不意に誰かの声が聞こえた。僕は立ち止まり、振り返った。その声は、昔大好きだった既婚のあの人にそっくりだったからだ。だけど、通りには誰もいなかった。

僕は声を失い、ただその場に立ち尽くしていた。周りを見渡し、路地の間も確認し、頭の中で疑問が駆け巡ったが、答えは見つからなかった。ただ、世界はほんの少しだけいつもと違っていた。

夜空には薄い雲が広がり、街の明かりをぼんやりと反射していた。新しい年を迎えたこの夜、僕はホテルで仮眠をとり、ケニアに向かう。

ゲイマッサージ掌編集
https://www.third-massage.com/novel/

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