雑記 18 / わからなさと芸術
芸術と向き合うときの「わからなさ」が実はとても重要で、その「わからなさ」を面白いと感じて向き合うことができるか否か。簡単にわかってしまうことよりも、そのわからなさの部分に本当の面白さは転がっているはずだ、という話を今日は店頭でしていた。自分自身の思いとして。
「わかる」ということは難しい。
その知識に関する全体像を把握していないと、本当に理解しているかどうかを判定することはできない。「自分はこれを分かっている」と定義するためには、「分かっている」かどうかをジャッジするためのメタな知識と判定能力が必要となる。じゃあそのメタな判断基準となる知識だけで果たして十分に・・・と無限の入れ子構造が始まってしまう。「本当にそれを分かっているかどうかなんて、誰にもわからないじゃないか」という袋小路に入り込んでしまう。
そうではない、と説明するためにいろんなロジックが存在している。言語構造からのアプローチもあれば、認識能力のシステムそのものを分析する手段もある。あるいは脳科学的なアプローチも可能で、筋道はいろいろある。
科学というものが反証可能性を必ず孕むものであるならば、科学的に人類が「分かっている」こともいつひっくり返ってもおかしくはないのだ。太陽が西から上ったり、時が加速して歴史が一周する日が急にやってくる可能性はゼロではない。限りなくゼロに近いとしても。科学で理解してたことは今日から全部無効!ということだって、世界そのものの構造が変わってしまえばいつだって起こりうる。
などと言っても生活があり人生は続き、人類を基礎づける営みとしての芸術は存在している。そこに何かしらの「わからなさ」を含んで芸術は現れる。
そのわからなさの形を知るために言葉を使い、いろんな見方をして、コミュニケーションを取ったりいろんなことを考える。少しづつ「わかる」ようになって、その分またわからない部分が増える。しかしそのプロセスの中に楽しさや感動があって、芸術の営みは生きる実感を与えてくれる。そうでないものもあるけれど。
そんなこんなで「わからなさ」との付き合い方は大事で、そこに向き合うことに僕は喜びを感じる。少し分かって、わからない部分がちょっとだけ明確になる。そもそも本当にわからないものは何がわからないのかもわからないから、言語化のとっかかりすらないのだ。
良い作品だとは感じているけれども(あるいは誰かが良い作品だと言っているのは知っているけれども)、どこがどう良いのか言葉にできない。そうした地点から始まるコミュニケーションに僕は希望を感じる。
そのやり取りの中で作者も含めて知らなかった作品との新しい向き合い方やよさが浮き上がると本当に嬉しい。展覧会をしていると、そうやってお客様から教えてもらうことがたくさんある。大きな喜び。
ということで。大槻香奈さんの作品を僕は時代性を反映しつつ、未来の可能性とわからなさを示す素晴らしい作品たちだと思っている。しかしそれを具体的に説明しろと言われると、ある程度までは明瞭に話すことができても、とあるポイントを超えると「わからない」となる。その超えたところでいろんな話をするのがとても楽しいし面白い。展示そのものも素晴らしいものになっている。これは確か。
このGW、東京都内で一番良い展示は白白庵での大槻香奈個展だと僕は本気で信じている。ぜひご覧いただきたい。そして「良い」「わかる」「わからない」「わかった!」「いやでも・・・」を一緒に楽しんでいただければと願います。
補助線はこのインタビューにあります。
https://note.com/pakupakuan/n/nffd978bf3c26
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