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山に落ちてて拾いたくなるもの
このテキストを書いている9月5日(木)現在、白白庵では田村一個展『山山人山山』を開催中(9月8日(日)まで)。
今回の出展作品、特に新作類については下記のインタビューにて語っていただいてます。
田村さんの作品の魅力はなんだろう、何がこんなに人の心を掴んで、そして僕の琴線に触れるんだろうと考えてみると、作品から溢れてくる田村さん自身の焼き物に対するセンス・オブ・ワンダーにあるんじゃないかと思い至りました。
蛇足でちょっと寄り道すると「センス・オブ・ワンダー」はレイチェル・カーソンの有名な著作のタイトルでもあり、「自然に触れて深く感動する力」として記されます。
田村さんのお話には、もちろん先のインタビュー記事の端々にも現れていますが、焼き物を作るという営みそのものへの深い愛情と喜びが溢れ出ています。
土をこねて、轆轤で成形して、釉薬を作ってかけて、それを焼くという一連の行為、そのひとつひとつに終わらない探究心を向けて、そこで起きた現象それぞれに喜びや楽しみを見出しています。特に轆轤による成形工程は田村さんの作陶をアイデンティファイする重要なファクターです。
その過程で生まれる、土のテクスチャーや水の滴り、回転の履歴。釉薬の原料となる様々な物質の由来、そこから生まれる様々な現象とゆらぎ。制作プロセスにおいて起こる物事全てと、結果として現象する作品の姿に田村さんは深い愛情を注いでいる。何十年もやきものを続けているのに、まるで陶芸作品を初めて作った時の感動にいつも出会い直し続けているような歓びが作品そのものに溢れています。
ジャンルとしては食器がメインになるのに、同じシリーズの器でも全て異なります。同じ寸法になっているはずのシリーズでさえ、全く別物に見えるくらいのゆらぎがあります。多様性などという言葉を使わなくとも、「全ての存在はそれひとつしかない」という自然の事実を当たり前のこととして示されているようです。同じ種類の器でも「このお皿」はこれでしかないということです。そこにどう向き合って許容したり楽しんだりするかは、使う側の喜びです。
そうしたセンス・オブ・ワンダーが使う我々の方にも示される。手付きの作品など一目で特殊とわかるものも、ただの丸い湯呑にも、全てにワンダーが詰まっているのです。
だからこそ、なんてことないシルエットで静かな釉調の器であっても、ふと心を震わせる何かがあるのではと思います。
音楽で言うなれば、整った演奏であることよりも、素晴らしい音色を鳴らすことに注力しているようにも思えます。
この楽器を鳴らして美しい音が鳴った。もう一度あの音色を聴きたい。違う美しい音が鳴った。そうして繰り返すうちに音楽として成立していくような、感覚を頼りに何かが生じてくるような在り方です。すでに書かれた楽譜をなぞるのではなく、音そのものを頼りに組み立てられる即興音楽。演者と観客の間に音楽的な呼吸による対話があり、その対話が次の音楽を生むような仕方で田村さんのやきものは存在しているように感じます。
![](https://assets.st-note.com/img/1725534202-b3AXLR7HsDJnEyaFOQiokYgN.jpg?width=1200)
会期の始まる1ヶ月ほど前にDM撮影用にと送られてきたこれら。
「なんなんですかこれは?」と尋ねると「こういうのさ、山に落ちてたら拾いたくなるでしょ?」と田村さんに言われました。
ああ、すごく田村さんらしい感覚だと一発で納得しました。
田村さんはこういうのを拾う側の人で、その喜びの先に作品がある。
陶芸家に限らず芸術を愛する人はたぶん、みんな拾う。拾いたくなる。僕も拾う。
もし小学生の息子がこんなものを拾って帰ってきたらニコニコしてしまう。
拾ったその子はきっと友だちと次のこれを拾いに行く。
ワクワクしませんか。
皆さんもぜひ山に落ちてたら拾いたくなるものを拾いに、あるいはそんな感覚にあふれた器たちを迎えにいらしてください。
ワンダーに満ち溢れています。