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大槻香奈個展前配信に向けてのメモ

こちらは4月16日(火)に行ったシラス配信『大槻香奈個展「死んじゃいけない星」予告編!』の配信出演前に作成したメモです。メモなので断片的なテキストの羅列ですが、大槻香奈作品を鑑賞するための切り口、あるいはヒントとしてどうぞ。
このメモの意味を知るには、下記の配信をご覧頂くことを強く推奨します。
というか、この配信を視聴する補助線としてご利用ください。
そして4月27日から白白庵で開催される大槻香奈個展『死んじゃいけない星』にお越しください。


https://shirasu.io/t/kanaohtsuki/c/yumeshika/p/20240402174505


・クロノジカルに活動を追うことに意味がある作家
→現時点に至るまでのプロセス全てに意味が発生している。今分からない作品でも、必ず後の展覧会で答え合わせがある。
→時代の空気の鏡として機能しているとはそういうことではないか。
→少女以外のモチーフを通過することで過去作品にもそれがすでに含まれていたことが発見できる。少女以外のモチーフを通過した後にはその要素が強く現れる。


・ポートレートを中心に時間軸に沿って追うとわかりやすいのではないか。→ポートレートこそがやはり作家性の中心にあって、それまでに取り組んだ物事が反映され、同時にこの先未来の要素(分からなさとして)が含まれている。(もちろん鑑賞の補助線として、そのような導線も想定可能、という話)

○うつわ性について

①技術的、技法的側面から見るうつわ構造
→下地、背景、少女、その上に描かれる線や模様が複数レイヤーにまたがる。そこにパネル、鑑賞者の目というフレームがさらに加わる。うつわ構造の重層性。現実性と非現実性。画面の向こう側という非現実の場に、実際に確かにいる。(無意識のカオスの中から「少女」という現象が浮かび上がっているようにも見える。カントの「物自体」のような不可知の本質存在が現象として浮かび上がっている、という見方に置き換えても良い。あるいは無意識を覗き込んだ時に見えた少女像とも捉えられるかもしれない。少女の上に被さる様々なモチーフはシュルレアリスム的で象徴的)

②作者の祈りとしてのうつわ性
→作品そのものの構造と鑑賞者の見方をつなぐ機能が「作者の意図」と呼ばれるものでは?
→うつわ、鏡、自己反省を促す。少女に何かを物語らせる。
→絵画である=イラストレーション的な消費を許さない。(画面の少女がそれを許さない)

③鑑賞者が見出すうつわ性
→ファンと呼ばれる方々は大枠としてはみんな作品そのものは同じように見ているのではないかと思う。しかし、その見方は鑑賞者個人の抱える物語と反応するため、そこから先が全く異なる。

→男性視点と女性視点では導き出される物語が全く違う。そういえば近年のドローイングは「個人的物語」シリーズと呼ばれていたけれども。大槻香奈作品について語ること、特にポートレート作品について語ることは、鑑賞者自分自身を語ることになってしまう。

・美術鑑賞における一般論として、①作品そのものが持つ性質と③鑑賞者の視点が③作者の意図によって橋渡しされることによって、個別の鑑賞が行われ、あるいは一般的な、普遍的妥当性をもつその作品に対する解が導き出される。同時に個人的な鑑賞体験が生まれる。

この①②③がどのような割合で絡み合うかはケースバイケース、大槻香奈作品、特にポートレートに関しては③に働きかけて物語を導き出す力が強くある。そうして生じる物語の個別性も強い。その集合が作品の評価であり、大槻作品の本質的な部分ではないか(これはつまり「うつわ的」の言い換えになるけれども)

⚫️脇にそれる膨らむトピック(これについても語りたいけれどもとても時間が足りないので別枠が必要になるのでは、という内容だけれども重要な切り口)

・現象を描く / 偶像性、寓意性
→カント的には「現象」という言葉には物自体(本質的な存在)を直接認識することはできないという諦めが伴う。画面に描かれた現象は本質的なものの存在を指し示す。例えば女性のポートレートが西洋美術の文脈では聖母の姿を源流としており、その成立過程からすでに偶像性/寓意性を含んだものとして発展している。モナリザだろうと真珠の耳飾りの少女であろうと、ある種の理想化が絵画化される中で行われ、現実の具体的な存在から、抽象性をはらみ、何かしらの寓意性を示すような作りになっている。(あるいは鑑賞の方法論としてそのような見方が前提とされる)
故に、具体的な人物像ではあるものの偶像的であるポートレートと、イラストレーション的な切り口で描かれた大槻香奈のポートレートには構造的な意味で本質的な差異はないと僕は考える。その意味では伝統的な女性のポートレートは常に本質的な何かを指し示しながら「うつわ」的に鑑賞者に働きかけてきたのでは、とも思える。

→セルフイメージとしてのポートレートが主流となった2010年代以降の写真文化、自撮り文化に育った世代ではこのポートレートに対する反応の仕方は異なったものになっていると想定される。アイドルカルチャーと推し文化に馴染む人の感覚にも接続しやすいモチーフでもある。むしろその自撮り界隈の人たちがこのポートレートを見て何を思うのか知りたい。

・同じ作品でも鑑賞者個人の経験によって見方は大きく変わる。永遠の16歳を目の前にする鑑賞者が常に変化をしている。30代を通じて感じ方は変化し続けて、どちらかと言えば16歳に対しては親でもおかしくない年齢に差し掛かった。それでもずっと、自分が10代の時に抱えた痛みを常に思い出させる作品であるし、失われた可能性に対する憧憬でもある。

・おじさんからすると少女はありえなかった自分、叶うはずのない可能性の象徴であったとも考えられるけれどもVtuberやVRという手段で「美少女になりたい」を叶えられる時代になったことでここに向けられる視線も変わるのかもしれない。(そうしたおじさんたちに対してこの少女たちが向ける視線は変わらないんだけれども)


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