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雑記54 / 批評とお絵かき会と

先日、大槻香奈さんのシラス番組『「ゆめの傷口」作品集について話す会・その3』に呼んでいただいた。

「時間が足りないかも」と思って一気呵成に喋り続けたらちょっと時間が余ってしまった。
(そこでもっと話すべきこともあったんだけれども、自分の話の情報量で自家中毒気味になっていたので最後は緩やかに着地した。別にこの一回で全てを話す必要もなければ、そもそも全てを話せるわけもない。)

事前準備の段階から「今回は批評的に画集を読んで話します」と告知していた。
画集も一冊の本であるし、作品の流れから浮かび上がってくる物語もある。
絵画作品は、と主語を大きくすると例外があるけれども、少なくとも大槻さんの作品はそれぞれに物語性があり、同時に示されるものとしての語りえなさがある。並び方、つまり一連の流れによって、その語りえなさは物語的拡がりと接続し、その両面をつなぐうつわとして立ち現れてくる。新しい画集のそのうつわによる物語は、前画集『その赤色は少女の瞳』にも逆照射的に別の語り口を与える。過去の作品の意味は新作によって重層性を帯びてくる。

元々を言えば「画集に掲載されてて、原画で見たことのない作品の話をもっと聞きたいっすね」という僕のリクエストでこの配信日程が決まったのだけれども、話を聞きたい過去作品について考えているうちに、自分なりの読み方に辿り着いてしまい、その話をすることにしてしまった。

それは大槻香奈作品に連なる〈私〉の在り方の変化であり、それを再獲得していくプロセスであり、独我論に対するひとつの解釈だった。
僕は親切なので、話のややこしい部分が伝わりやすいようにレジュメを作ったけれども、愚かにもそれを飛ばして話してしまった。書くのと喋るのでは伝えるために強調すべきポイントが違う、ということに全く慣れない。
聞き手が迷子にならないように喋るために順序立てた自分用メモも作っていたけれども無視してしまった。喋りながら途中で読み返して「何て良いことが書いてあるんだ。凄い!」とひとごとのように思ってしまった。そこに書かれてていたのは作品批評であり、同時に個人の実存にまつわる切実な視点を伴った話だ。自分だからこそ読み込んでキャッチできたものごとがある。

その内容に関しては、しっかりと時間をかけて慎重に大槻香奈批評のテキストとして完成させる。ちゃんとした形で世に出したい。
それが大槻香奈作品を世に深く伝えるために機能してほしい。そして願わくば誰かが「いやそんなもんじゃないでしょう」「こんな程度で良いなら自分の方がもっと愛情深く良い内容が書ける」と対抗意識を燃やしてくれれば良い。

そんな風に熱量を持って語るべきことが湧いてきて、人の心を動かし、思考の巡りを促し、そして鑑賞者それぞれの実存に訴えかける力を持った作品たちが掲載されている。
ぜひこの画集を手に取っていただきたい。そしてその上で興味が湧いたら先の動画もご覧ください。


そもそも僕は「批評」が苦手で、自らの様々な行為を「批評」としてパッケージングすることをこれまで避けてきた。販売に関わる人間としての立場を明確にしておきたく、そして「これ自分の批評である」などと打ち出さなくても、僕の視点が作家本人の糧になってくれればそれで良い、と身近な人に伝えるばかりで、自分の考えを自分の名前と共に語ることを良しとしてこなかった。鑑賞行為そのものに批評性が伴うとしても。あるいは自分の視点が批評的であることを自覚しつつも。
「批評」へのクエスチョンはまた別の機会に整理して書くけれども、とにかく今回、そしてこれからは「それどころじゃない。自分がやらなきゃいけない」と思い立って、あえて「批評的」と前置きして臨んだ。
とにかくよく喋っているし、あちこちにジャンプするけれども大事な話はしているはず。


そしてこの配信の二日前には飯能の「こぐま座α」さんに家族で伺い、大槻さんのお絵かき会ワークショップに参加した。
そもそも自分がお絵かきするのは十数年ぶりだし、絵を描くことは苦手だ。大学生のころ暇つぶしにやった記憶スケッチでは毎回ダメ担当だった。
時は流れ今や身分はアートギャラリーの店長である。芸術運動の本を作り、数日後には批評的に絵画を語ろうとしている。
その資格を全て剥奪されてもおかしくないのでは、と内心怯えながら向かった。息子は久々の家族揃ってのお出かけに喜び、全員でのお絵かきへの期待に胸を膨らませていたので覚悟を決めるしかなかった。

結果としてお絵かき会は無事に楽しく終わり、家族揃って大満足の一日だった。もっと参加したい、と思うくらいシンプルに楽しかった。
脳のいつも使わない部分がアクティブになる。
自分で手を動かしてみると、日々出会うプロの画家による「作品」たちがいかに技術的にも思考的にも飛躍を含むであるものかを強く実感させられた。「ちょっと手を動かしただけで分かった気になっている」わけではなく、わからなさの輪郭が一層大きく複雑なものとして捉えられるようになった、という話。
自分が理解できる範疇での鑑賞だけでは作品の示す可能性を狭めてしまう。そのわかる部分ではなく、わからなさの部分をいかに捉えるか。隣にいる誰かは自分とは違う部分がわかって、違う部分がわからないのかもしれない。それを共有することで自分のわからなさの範囲とわかる範囲をどちらも拡張することができる。手を動かしたり、誰かとコミュニケーションを取ることで鑑賞の可能性は大きく開けていく。作品に向かう人それぞれの「うつわ」は形と大きさを変えていく。そうしたところに自然に生じる「批評的行為」には強く興味がある。

芸術を通じたうつわ的コミュニケーション。やはり自分はそこに興味があり今必要としている。そして世界にもそれが必要だと強く信じている。

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