雑記 6 / 何かのように鑑賞すること
「音楽を聴くように陶芸に触れ、陶芸に触れるように絵画を観て、絵画を観るように音楽を聴く」ような鑑賞の仕方をずっと推奨している。この順番は全て入れ替え可能で、あるいは文芸や映画だって同様だ。この構成要素がどの表現ジャンルに入れ替わっても成立する。
表現における何かしらの専門家が、例えば陶芸家が「絵は素人で」とか画家が「陶芸は専門外で」と謙遜してコメントを避けるのは勿体無い、と感じる。陶芸のプロがこの絵画を観た時にどのように捉えているのか、画家が画家的な視線で陶芸に触れる時に何を観ているのか、それが知りたいのだ。
もちろん、それぞれの表現におけるプロフェッショナル同士だけが共有できる専門的な見方は存在している。そのジャンルのプロであり、そのようなハイコンテクストな視点を理解している人物であるが故に、他ジャンルのそれに対する遠慮が生まれることも重々理解する。けれども、作品にとって必要なのはその専門的な視線と同時に、他方面のあらゆる視線からの評価によって多角的に解釈されること、そうして社会や歴史の中に開放されていくことだと思う。
あるいは、その遠慮は「専門家としての一般論」という客観的な位置に自分を置こうとするから生じるのかもしれない。必要とされるのは、その人がプロであろうとそうでなかろうと、それどころか老若男女国籍問わずどのような人であろうとも、「その人だけの、個人的な視点による話」が必要なのだ。一般論からはどこにも行けない。
では例えとして個人的な話をすると、自分は10代の頃から音楽をかなり熱心に聴いて過ごしてきた。特に60~90年代のUS、UKロックを中心にジャズもHIPHOPもクラブミュージックも、そして同年代の音楽も雑多に聴き、高校生の頃は懐かしのMDプレイヤー、大学生になるとiPodを手放さず、とにかく生活の中心は音楽にあった。ギターも弾いてバンドもやった。
20代中盤、家業である陶磁器関係の仕事を手伝うようになった時、「美濃焼ってのはジャズっぽいんだな。利休がマイルスで古田織部がコルトレーンでその文脈だ」とか「有田焼がハードロックで清水焼はメタル」「備前焼はブルースかなぁ」「現代の作家だとこんなエレクトロニカみたいな表現もあるのか」などとざっくりと産地の特色を音楽ジャンルに振り分けつつ、同時に個人作家をいろんなミュージシャンに重ね合わせて理解を進めた。「この焼き物はあの音楽っぽい」「じゃあこの人のこのシリーズはアルバムで考えるとこれだな」とか、そんな風に。当時と今では捉え方も変わっているし、いわゆる「正解」か否かは別の話だ。
そして今の仕事で絵画も取り扱うようになると、今度は絵画を陶芸作品や音楽に重ね合わせて身体に馴染ませていった。もちろんプロとしてやる以上、正統とされる歴史的背景や文脈については現在進行形で学び続けている。陶芸に関して言えば、そもそも実家では祖父や伯父、そして父が作った器を使って育っているから、ベースとなる身体感覚や観測定点が出来上がっていたことは大きい。
生まれ育った環境と、自分で熱心に音楽を通じて獲得した感覚を出発点にして現代の作品と対峙していくこと。自分が感覚的に知っているあらゆることを総動員して作品と対峙すると、自分だけの感想が湧き上がる。それをなんとか言語化したり、その中で共感を得られるであろうポイントをピックアップして人に伝えようと試みる。そのように仕事の基盤を作っている。
個々人それぞれに固有の知識や感覚がある。それを手掛かりとすることで芸術鑑賞はいくらでも面白くなる。分からないものや理解できない作品について考えるものその営みのひとつだ。そして自分にとって分からないものはいろんな人に意見を尋ねてみたり、あるいは批評を読んでみたりしても良い。そうすることでコミュニケーションが生まれる。作品をきっかけに対話が生じることも芸術の大事な機能の一つだ。これからどんどんAIが幅を効かせて、「分かる」範囲はどんどん拡張され加速していく世の中なんだから、こうした分からなさを、遅い時間の流れの中で抱くことも必要となる。
などと言う話に繋がることを『日本現代うつわ論』にも書いている。
美術作家の大槻香奈さん、デザインとか研究とかなんでもやるナツメミオさんと、画家の池田はるかさんと『ゆめしか出版』というチームで、先に述べたような総合的で横断的な感覚を「うつわ」というキーワードで捉える本を作っている。『うつわ論』は芸術運動でもあるけれど、芸術に関わるすべての人の個人的な物事のための話でもある。僕は『2』を企画したので青山的な感覚はそこに色濃いはず。
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