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世界の限界としてのポートレート


9月18日(水)に大槻香奈さんのシラスに出演して画集『ゆめの傷口』の個人的な読み解きについてお話した。重要な内容だったと思う。芸術と触れ合う上での自分自身の視点がブレイクスルーしたような感覚もあり、これを礎に色々と展開できるのではという予感もあった。
その内容は時間をかけてテキストとして整えて、何らかの形で発表するつもりだ。それは自分にとっても大切なことであるし、それをきっかけに大槻香奈という美術作家に対する批評が活発になれば嬉しい。
この日の手応えを忘れないために、配信で自分が語った内容の一部を、いずれ書かれるべきテキストの草稿として記録しておく。

まず旧画集『その赤色は少女の瞳』との比較を行なった。こちらは2018年発行、2017年までの作品がまとめられている。デビューから10年の軌跡を辿ると、「少女」を軸に様々なイメージが絡み合い、表現スタイルもモチーフも変化していることが見て取れる。
おおまかにその変遷をまとめるとすれば「いずれ母となる少女」が世界そのものと重ね合わされ、徐々に日本的な物事や感覚へとフォーカスしていき、蛹というメタファーを経て、輪郭を失っていく行程として読むことが可能だ。蛹の中でイモムシはその姿を一度溶かし、蝶へとメタモルフォーゼする。旧画集はメタモルフォーゼへの予感を示して終わる。


そこから比較すると『ゆめの傷口』は、個としての輪郭を失った「私」が「うつわ」としての形を取り戻し、自己同一性を保持しながら別の形での〈私〉を再構築するプロセスとして読める。
2017年以前の作品も「うつわ」に連なる視点で捉え直され、そして「石」というモチーフを通じて『世界の内側』(掲載番号12)へと向かった私は個としての〈私〉を取り戻す。古来、結界や依代ともされる石は異世界への入り口となり、異なる時間軸を提示するモチーフとして設定可能である。「うつわ」という世界における「内側」とは物体としての器と内側の空虚の境界上の内奥として見ることもできる。
轆轤の回転がもたらした螺旋運動の結果のように、『Transparent eyes』(掲載番号01)でこちらに飛行機雲と青空の下で背を向ける少女の像は『死んじゃいけない星』(掲載番号77)で、同じ空の下こちらをじっと見据える。ここに現れる〈私〉は既に変化の後にいる。

輪郭を失った「私」が「石」の内側で「個人的物語」を通過した後に出逢うポートレートの少女たち(掲載番号73~76)は世界そのものの在り方を、うつわの端から示す“世界の限界”である。
(そして同時に過去作の全てのポートレートに対しても鑑賞者は"世界の限界"として出会い直すことが可能となる)

このように僕は読んだ。

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ここで述べる”世界の限界”とはヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の命題5.63に基づいている。

“私は私の世界である。(ミクロコスモス)”(L.W『論理哲学論考』5.63)

ポートレートの少女の瞳は鑑賞者である「私」の世界を見つめる視線である。その少女の視線を通じて「私」が「私の世界」を見つめる時、その世界の外側に「私」は連れ出される。同時にに、その少女の眼差しが「私の世界」を見つめる時に「私」は「私の世界の内側」へと誘われる。前期画集はその眼差しを受け止めるまでの、そして世界の中に私の居場所を見つけるための物語となる。
しかしそれだけでは、仮に私的世界という殻の中で輪郭を失ってしまえば、「世界は私の世界である」という形の独我論に陥る可能性を持つ。

「世界は私の世界である」という独我論においては、他者の存在はすべて「私」に回収されていく。例えばセカイ系にも通じる感覚として「僕と君」が「私」に代入され「セカイは僕と君の世界である」が成立する。あるいは他者の存在を自己の枠内に取り込んだ「私たち」による世界が立ち上がる。
「世界は私の世界である」と信じる人が孤独を解消しようとする時に成立する命題は「世界は私と私たちの世界である」だ。どこまで行っても「私」は世界の中に孤独に存在し、他者は「私」あるいは「私の世界」の構成要素として飲み込まれていく。

"私は私の世界である"と信じる時に他者の存在はどのように肯定することができるだろうか。
この時、「私は私の世界である」ことと「あなたはあなたの世界である」が同時に成立する。この世界の中で無数の「あなたの世界」が「私の世界」と同時に存在すること。わたしの世界と同時に他者の世界を認めることはつまり、孤独を孤独のままに受け入れるための回路であり、孤独のままに他者を肯定する手段だ。
世界の限界である〈私〉と対峙した上で、「私の世界」と「あなたの世界」を共存させていく。そのように他者と繋がるためには痛みが伴う。結果として生じるのが「ゆめの傷口」ではないか。

まとめ。
新画集はその私の「世界の内側」に導かれた私が、その世界の中で孤独に過ごす私が、孤独なままに別の世界(=他者)と繋がる方法を探る物語となる。2024年のポートレートはそれらを通過した後に出会う「世界の限界」である。ポートレートの少女たちはそれぞれに世界そのものであり、私の世界の限界を見つめ、その輪郭を与える存在となる。『ゆめの傷口』は失われた個人のうつわを再構築する道のりが描かれている。


とまあこんな感じのことをお話したわけです。
夢中だったのでもしかしたらこのテキストの方がまとまっているかもしれない。しかし身振り手振りと音声の方が伝わることもあります。

ともあれ既に「いやそれはあなただけの感想ですよ。私は…」ということもあるかもしれません。そうした方にはぜひ何か書いていただいたり、あるいはお話をしにどこかに集まったら良いのです。

ともあれまずは自分自身へのメモとして。

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