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雑記 57 / 魯山人お勉強会
この度も大槻香奈さんのシラスに読んでいただきお勉強会を開催した。
今回のテーマは北大路魯山人。
まず魯山人という人物そのものがあまりに面白い。年表を丁寧に追うだけでも二時間配信五回分くらいになってしまうのではないか。
本人は大変な人生を過ごしたし、特に捨て子同然の幼少期は壮絶。さらには魯山人の傍若無人っぷりに振り回された周囲の人々のことを考えると全く笑えない。それでもやっぱり濃密な人生であり、作品や随筆と照らし合わせて考えさせられる部分が大きい。没後60年以上経った今でも、その作品を前にして議論を引き起こし、あるいはその言動をめぐって芸術論を交わすことができることそのものが凄い。生涯、言動、作品の全てを総合したものが魯山人の芸術であったのでは、と思わされる。その引力は数十年経った今でも有効なのだから、リアルタイムで同じ空間にいた人は当然そのエネルギーに絡めたられてしまっただろうな、ということは容易に想像がつく。
魯山人は嘘つきだし卑怯でもある。随筆や公演集を読むと、耳馴染みの良いハッタリかまし、妙な説得力を持たせる能力に長けている。カリスマ性がある、と言っていい。ただし細かいところを見ていくと「陶器は全て自分で作らねばならない」とか自身の実態とも異なることを言ったり、嘘や矛盾が見え隠れする。自分の作品を素晴らしいものだと相手に認めさせるためには様々なレトリックを駆使する。それを書いたり喋っている時には彼にとっては「本当」になっているんだろう、とも思う。自分の嘘に酔って自分で信じ込んでいる節もある。
卑怯、という面で言えば自分が多角的に才能を発揮して書に詳しいことをいいことに、相手を専門領域外に引き摺り出して罵倒する、という手口をよく使う。「あんな立派なことを言うけれども(あんな凄そうなものを作っているけれども)字を見ると大したことない。人間性の乏しさが字に出ている」が一番得意なパターンである。相手の最も得意とする表現領域での評価をせず、そんな風に貶すのは端的にフェアじゃない。
芸術とは天才によって生み出されるもの、という信仰が色濃い時代の人だから、芸術作品は作者の人格の現れであることをとにかく強調する。
ならあんたの人間性はどうなんだ、と言いたくもなる。当時からみんな思ってただろう。
人間性が云々という割に、幼少期のトラウマもあって魯山人は徹底的に人間不信である。その裏返しとして母なる自然への絶対的な信頼と憧れを抱く。料理でも書画でも陶芸でも、共通して美という感覚があり、その源泉となるのは自然そのものである、と彼は繰り返し述べる。美の発露とは自然のあり方や素材そのものの力を活かすことであるという。芸術と人間性の豊かさを結びつける一方で、美とは自然なり、と。じゃあその人間性とは、素晴らしい人間とはどんなものかとなると魯山人は詳しく述べない。
物を見れば分かる、という話にすり替わっていく。
独特のアフォリズムに満ちて、簡明に美意識を述べているようでいて、思想の全体像を整理しようとすると掴みどころがなくぼんやりしているのが魯山人だ。
言説は鋭いのに、魯山人のやきものは結構ほっこり系である。かわいくてゆるい。「器は料理の着物」であるから、料理を盛り付けて食器と一体になった時に芸術としての"料理"が現れるのである。彼のこのロジックゆえに「このやきものをしょぼいと思ってしまうのは、使い方がイメージできていない鑑賞する側の未熟さだ」と論点をすり替えることが可能になってしまう。
これもずるい。
これは余談だけれども、彼がスタンダードを作り出して今や「当たり前」になってしまったから魯山人が大したものに見えないという点もあるだろう。オリジネーターゆえに。
「だけどさ」というエクスキューズを常につけたくなってしまうのが魯山人の作品だ。それでいてハッとさせられるようなやきものも、ひとめで「うわかっこいい!」「あ、これはすげえな」と説得させらる物も多く残っている。
やっぱり総合芸術家だ。特に僕はやきものばかり見てしまうけれども、それだけじゃ分からないし、分からなさと矛盾と、それをひっくり返して「いいね」と思わされてしまう何か。それについてはいくら語っても語り足りない。魯山人回はしばらく置いてまたテーマを絞って二回目やりたいですね。
ということでお勉強会のアーカイブをお楽しみください。
僕らはヒートアップして、配信終了後も二時間近くおしゃべりしてました。
魯山人の随筆は青空文庫でたっぷり読めるのでご参考までに。