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石と表象としての世界

タイトルは数年前に思いついてしまったけれども、単なる駄洒落のようになってしまうので頭の奥にしまい込んでいたものだ。
しかしながら、木ノ戸久仁子さんの2024年最新モードである個展『アーティファクト』に足を運んでみたところ、ショーペンハウアーの言う「意志」と木ノ戸さんの「石」はやっぱり近しいのではないかと思い至ってしまった。
そして石であるそれぞれの作品には、全てにそれぞれの世界が成立していて、本当に「石と表象としての世界」じゃないか、と驚かされた。

ここから先のテキストが長くなるので先に書いておく。
木ノ戸久仁子個展『アーティファクト』は日本橋三越6階工芸サロンにて10月8日(火)まで開催中。
まだバレていないだけで、こんな凄いやきものは世界が放っておくわけがない。陶芸としても革新的でありつつ、表現として全く別次元のものだ。この言葉を信じて足を運んでいただけるならこの先のテキストを読む必要はありません。(読んでいただければ一層楽しめる補助線にはなるかもしれないけれども)とにかく見て触れていただきたい。いつかそんなことも簡単には叶わなくなるかもしれない。

http://mistore.jp/store/nihombas


木ノ戸久仁子『稀晶石』


木ノ戸さんは陶芸の技法を使って石を作っている。
元々、木ノ戸さんは石を愛している。
やきものとは、粘土や釉薬などに形を変えた鉱物を焼成する行為であるから、その技術を応用すれば石を作ることが可能ではないか、と考えたそうだ。ロジックで言えば確かにそうかもしれない。しかしそう簡単なことではない。どんな困難があるかは専門的な話になるし、そもそも僕自身がそれを体験しているわけでもないので端折る。とにかく常軌を逸した行為であると捉えていただきたい。時代が違えば魔術と呼ばれていたような行為であり、あるいは近代以前の錬金術師の仕事である。そこで生み出した石を「稀晶石」と呼び様々な形態に錬成している。

自然現象の模倣である陶芸の技法を使い、自然界には存在しない石を作っている。鉱物から生じた釉薬と土で芯を作り、焼成による溶融と重力の影響を受けたものをグラインダーで削り出す。自分の手と自然現象による造形を何度も行き来させることで、人工あるいは自然の営みだけでは生まれない新しい石を作り出している。(木ノ戸久仁子)

ここまでは技法の話だ。問題はそれによってどのような表現が行われているかだ。

『意志と表象としての世界』はこの一節で始まる。

"世界は私の表象である"

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅰ』中公クラシックス 5p

そしてこの「私」も「世界」も「意志」の表象であるとショーペンハウアーは言う。無理性的な盲目なる意志がこの世界や私を現象させる前提であって、生命も無機物もこの世界のあらゆるものが「意志」が現象したものとされる。

稀晶石の制作においては、素材、成型、素焼、釉がけ、本焼、そして削り出しなど全てのプロセスで造形をしている感覚があると作家は言う。自分の手が行う造形があり、炎や重力による造形もある。人の手と自然現象を行き来させながら、素材や現象そのものと対話を行いながら作品を生み出していく。
自然現象と人間の意志が交わるところで生み出されるのが稀晶石である。
目の前にある素材との徹底的な対話を通じて、それぞれの意志を反映させながら、あるべき姿の稀晶石として錬成する行為は単に陶芸であるというよりも、神話的な世界創造の描写を思い起こさせる。

木ノ戸久仁子『ワールド・イズ・マイン』


現時点での稀晶石の最高傑作とご本人が述べる『ワールド・イズ・マイン』はまさに、その「世界」を自分のものとして創造したという感覚が色濃く現れているのだろう。ディテールを覗き込んでみればそこには間違いなく世界が存在している。肉眼だけで確認できるレベルを超えた細部にも世界が宿り、この作品を所有することは内に現象するあらゆる世界を手にすることに等しい。


木ノ戸久仁子『稀晶石花器』

けれども、その全ての作品に、素材と人間の意志が異なるレイヤーで混じり合い、それぞれに個別の世界が立ち上がっている。
花器であれば自然現象の意志が、茶盌であれば人間の意志が色濃く現れているように僕は思う。そして作品の表層に刻まれた世界の景色には、その世界で起こりうるあらゆることが現象している。茶盌やぐい呑であれば掌の中にその世界を収めて、ぐるぐると眺めることが可能だ。SF古典である『フェッセンデンの宇宙』も想起させる。あるいはこの粒のひとつひとつにも世界が存在しているのかもしれない。
自分たちが生きるこの世界とは別の成り立ちの石の世界を、じっと見つめて想像すること。釉薬の景色として刻まれた他の世界を、抽象画的に読み込んでいく楽しみがある。

そこにある世界がどのようなものかはわからない。眺める人によってそれは異なるだろうし、手に取ってみるとしっくり来る世界もあるだろう。そうやって別の世界を肯定することが可能となる。私自身以外の世界の存在と在り方をそのまま肯定できる。ただそこにある、ということそのものが大切なのだ。これもひとつの、孤独なままに孤独を肯定する方法であるかもしれない。

稀晶石作品を肯定することは意志と表象としての世界を、石を通じて肯定することであり、それはこの世界だけでなく人間賛歌そのものともなりうる。
人間賛歌としての稀晶石がこれからどのようにこの現実世界に伝わり、あるいは時間を超えて遠い未来の誰かに何を運ぶのか。何かを運んでくれるのだろうか。いずれにせよ、この石がただそこにあるだけで、この世界は少し違ったものに変わる。
これから何が起こるか、みんなで楽しみに追いかけましょう。



蛇足ながら。
三越店頭でご本人に「木ノ戸さんの作品はこんなとこが凄いんですよ!」と熱弁していたら、気がつけば買っていた。自分で自分を接客してしまった。
良いぐい呑でしょう、という自慢です。

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