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会場インストール、そして四年ぶりの

このアカウントはプライベートで好きなことを書くつもりでスタートしたけれども、結局自分はワークもライフもひと連なりになっていて、ポジティブに言えばシームレスに少ないペルソナで暮らしているため、結局仕事のこともしっかり書いてしまっている。でもしょうがない。特に設営の日は本当にそれで頭がいっぱいになり、脳のリソースを全て次の展覧会のために使っているから他のことは書こうにも書けない。

この傾向は、事前にインタビューを作成するようになってから一層強まっている。記事を作成するにあたって、語られたことを文字に起こしながら、その行間にある事柄を拾い上げて記述を調整する。その時に語られなかったことの存在を作品と比較しながら推測する。語り手である作家の思考になるべく潜り込むようにして書く。(素人だからインタビューの作り方として正しいのかは分からないけれど)
これまでは自分の解釈を軸に展示会場を作ればよかった。しかしこの記事作成をくぐり抜けると、作品だけでなく言語という形でも思考が共有されているために、作品への視線が多層化して、設営の選択肢が拡がる。難しい。言語によってフォーカスされた部分を眺めながら、同時にそこからこぼれ落ちた面白さを拾い上げて並べていく。

素敵な会場になったはず。そうであってほしい。作家さんにもいらっしゃる皆さんにも楽しんでいただきたい。

この週末からは穂高隆児さんの個展『道楽口重(どらくえ)』。
白白庵での個展は三回目。料理人から陶芸家への異世界転生ストーリーはこちらの記事からどうぞ。

僕は穂高さんの器がとても好きだ。
蛇足になるからインタビューには書かなかったけれども、その形には刃物の跡が強く現れている。食材にスパンと気持ちよく包丁を入れた瞬間の景色が、焼き物の姿になって目の前にある。調理という工程の中ですぐに消え去ってしまう瞬間が、土を焼成することで閉じ込められているように感じる。感覚思考を繋ぐプロセスが見える。
穂高さんの作る形は、料理のための器であると同時に、料理における時間の経過や、営み全体を作品化していく器でもある、と僕は思う。
「陶芸」というものを考えるとこれはかなりラディカルなプロセスだ。料理人から陶芸家へ、ということで現代の魯山人とも例えられるけれども、魯山人とは全く異なるプロセスで料理と器の可能性を拡張しているのではないかと思う。



その「頃合い」みたいな感覚はやっぱり実物を目にして、使ってみないと分からない。穂高さんの器があると食事に対する気合がオンになり、楽しくなる。食事への心持ちが変わることは人生が変わることと等しい。そういう力のある器。
ぜひお手に触れてご覧ください。



そしてついに、白白庵の三階の棚がフルオープンに。やっとこれで本当にコロナ前の状態に戻った。四年ぶり。とても嬉しい。
真の姿になりました。四年前を知らない方もご存知の方もたっぷりとお楽しみください。
素敵なしつらえでお待ちしてます。

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