雑記52 / 2024年の夏休み、お勉強会
昨日まで夏休み。前半は息子を連れて実家へ。
いろんなきっかけが重なって今回はちゃんとルーツについて父や伯父に尋ねてみようと決めての帰省だった。
というのも、大槻香奈さんのシラスで開催しているお勉強会の続くテーマが「やきものレジェンド・加藤唐九郎と贋作の話」
タイミングとしては偶然だけれども唐九郎やらその世代のお歴々の話やリアル目撃譚も産地の老人たちはご存知なのでしめしめと。
そもそもここまでのお勉強会と『日本現代うつわ論』でのあれこれでの調べ物も重なって、自分自身の感覚の根幹を確認すべきだと感じていた。なぜ自分がこんな風に考えて生きているのかは、やっぱり家族の歴史の中に何かがあるはず。
今まで話の端々を繋ぎ合わせてぼんやりとしか知らなかったことを改めてちゃんと訊いてみたり、やきものの原料をちゃんと見せてもらったりした。
なんだかんだ父親と窯跡とか採掘現場とかを巡るのは初めてで、もっと早くからやっておけば良かったなぁ、と思いつつ。でも自分の中で必要だと思ったタイミングこそが必然だから、今だからこそ一番身に沁みるはず。
生まれ育った土地に積層している歴史が、すでに消え去ってしまったその姿がうっすらと見えてくるようで、何もないように見える山林にかつての誰かの意思やその気配が感じられるようで、あまり好きではない故郷との距離感が少し縮まったように思う。縮まったところで好きになったわけではないんだけれど。
面と向かってちゃんと尋ねてみると、やはり土地の人間しか知らないようなすごい話がポンポン出てくるし、教科書的な陶芸史とは異なる視点あるいはそこからこぼれ落ちてしまってる大事な物事もたくさん教えてもらった。
今語られている歴史は誰のための歴史なのか、どのようなプロセスで作られた歴史なのか。その意味で過去は変えられる。未来に生きる自分が、そうしてこぼれ落ちた何かを掬い上げることはできるだろうか。今自分の身近にある出来事を大事にすることはきっとそれを可能にするはず。
そんなことを思いながら東京に戻って大槻香奈さんの個展最終日に滑り込む。田舎で再インストールした視線と感覚で、展覧会初日に眺めた作品と再び対峙するとどうだろうか?大槻さんが描く「うつわ」としての作品たちを、どのような器として自分は見ることができるだろうか?
平面作品からぼんやりと器の姿をイメージしてみる、という見方を試したら楽しくなってしまった。
お勉強会でやってることは、やきものだけじゃなくてたくさんの日本的な芸術に接続できる話だ、と確認できた気がする。
そしてその流れでその翌日はお勉強会。
本とネットだけでは知り得ない仕入れたてのリアルなネタも交えつつの回。貴重でハイパー面白い回。みんな大好き贋作の話もある。人の番組でここまで好き勝手喋って良いのかってくらいに自分が一番楽しんでしまったけれど。
陶芸史における最大のスキャンダル「永仁の壺事件」を引き起こした唐九郎。
もちろん単純な金銭欲や名誉欲もあっただろうけど、同時に当時の美術工芸界やそれを権威づけるシステムそのものへの憤りも並大抵ではなかっただろうと思う。
陶工として、研究者として絶対的な天才である自分が本当の意味では入り込めないシステムそのものをコケにして覆したかったのではないか。結局は作品が残っている。圧倒的なものの前ではニセモノも似せ物も偽物もなくなる。
歴史の文脈によって「本物」だって入れ替わってしまうけれども、作品に込められた切実さとか真正性は変わらないはずだ。
何の話だ、と気になったならぜひこの動画を見てください。
100年前に唐九郎や多くの投稿が抱いた憤りは、今現在にも地続きのものだから。
夏休み最終日、そんな帰省とお勉強会を経て「正統な」歴史である東博の常設展を眺めると何が見えてくるだろうか?と気になって三時間くらいかけて回る。(それでも時間が足りなかったけど)
多くは言わないけれども、今自分自身が向き合っている仕事も遊びも含めたいろんな物事はとても大事で本当に面白いことである、という確信は得られた。
お勉強会の皆さんと東博ツアーしたいですね。
そんな夏休みででした。
それにしても地元に帰ると根源的な怒りやいろんな物事への気に食わなさを思い出させてくれるからありがたい。日本美術の流れを変えてやろう。