来し方を振り返れば (自己紹介)
気が付けば私の年齢も50歳を過ぎました。
私より30年上だったはずの父が自ら命を絶った年齢まであと少しとなりました。正直に言って、ここまで生きてこれると思えなかった時期もありましたが、なんとかフツーの人生に近いものを送ることができたような気もします。
父が命を絶ったのは1994年の11月でした。実家は100年以上続く事業会社でしたが、バブルの頃に銀行から融資を受けて多角化に取り組んでみたり、不動産投資や株式投資をしてみたりしていて、結果的にはそれが全て裏目に出て、立ちいかなくなっていました。そこにバブル退治の金利上昇があり、資金が底をついた状況でした。行き詰まった父は、生命保険金をあてにしての親族への債務返済と事業の再生を願う遺書を何通も残して逝きました。享年53歳でした。
会社を継ぐか、継がないか、大きな人生の岐路で当時大学生だった私は大いに悩みました。継ぐ、となると父ですらなすすべのなかった会社の立て直しに取り組まなければならない、それができるのか。会社の金融機関からの借入は数十億円あり、会社の資産は実質的には数億円しかない。そして、当時は借入は経営者の連帯保証が必須、一生かかっても返せない借金をいきなり背負うことになる。しかし、継がない、という選択をすれば、父の思いは霧消してしまうということ、父の会社で働いていた人々は一気に社会に放り出されるということも私は耐えられませんでした。そして継ぐことに決めたのです。
ところが現実は甘くはありません。生命保険金として入金したお金はほどなく底を突きました。バブル崩壊後の物価の下落もあり事業の資金繰り黒字化に至ることはありませんでした。結果的に私は手痛い敗北を喫し、事業を手放すこととなりました。(この後、借金取りとの戦いも発生していますが、自分の中でまだ気持ちの整理のつかない部分もあるので、このあたりは気が向けば書いていくこともあるかもしれません。「生きられないかも」と思ったのはこういうような時期でした。)
それこそ何重にも鎖を巻かれ、多くの錘をつけて海に投げ出された、、、そういう思いもありました。この先生きられるのかとも思ったこともあります。ただいくつも幸運に恵まれ、いくつもの会社で働く機会を得られました。結婚もし、子供にも恵まれました。望外にもフツーの生活を送ることを許されたのです。
(最近読んだ書籍に、中世ヨーロッパでは借金を返さないのは犯罪者の扱いだったと書いてありました。時代が許してくれた、ということでもありますし、だから、父のことは残念でもあるのです。)
ただ、結果的には私の働き方はフツーにはなりませんでした。
中小企業経営者は、大企業のサラリーマンの枠組みにはハマりにくいということなんだと思っていたりもします。いくつもの会社を結果的に渡り歩き、さまざまな経験をさせていただきました。
ご縁があった会社ですが、マッキンゼーやアクセンチュア、IBMビジネスコンサルティングサービスといった外資系コンサルティング会社でコンサルタントをやっていた時期もあります。「V字回復の経営」などの著作で知られる三枝匡氏が経営をしていたミスミという会社で事業責任者をやっていたこともあります。事業環境の激変に伴い大きな赤字に陥っていた和歌山の上場企業であるノーリツ鋼機の役員として再建を主導するようなこともありました。ソニーが始めた不動産会社(ソニー不動産)を軌道に乗せることもやりました。普通の人の大変な体験、経験というのを4つも5つもやっている、そんな気がしていますね。本当にいろいろな経験をして来てみて、今となっては社会人人生のスタートでの実家での経験も自分の中で活きていると信じています。
このNoteにはこんな私が経験して来たこと、学んだこと、ともに働いた人々の印象に残る言葉などを週に1回くらいのペースで記録していきたいと思います。社内研修で使ったりするような内容を転載することもあるかもしれません。たぶん書くことのかなりの割合は、私がマッキンゼーやミスミで学んだことになるような気がします。ここで書くことが、私の頭の整理にでもなればいいかなというくらいの気楽な気持ちで書こうと思っていますので、多くを期待しないでください 笑