シン・俳句レッスン152
夏バテ
夏バテは季語ではないという人もいる。「夏負け」も「暑気あたり」あたりがそうであるとするのだが「夏バテ」は夏が過ぎて涼しくなってから疲れがでてくるので、「夏負け」とは多少意味がズレてくるのではないか。人によっては「夏バテ」を秋の季語とするのもある。
季重なりだけどあえて入れたという新興俳句的に一字空白を入れた。
現代俳句
比喩で詠む。頭では理解するがなかなか難しい。見立てになってしまう。そのへんのとこ意識的に今日はやっていこう。先の夏バテの句も頑固爺ではなく、比喩を使うんだよな。
なんとなく熱帯系の鳥のイメージ。「火鶴」と漢字表記も暑さに強い感じ。
阿部完市
『最初の出発 (第2巻)』俳句のアンソロジー本なのだが現代俳句(昭和一桁生まれ)の俊英の最初の句集から百句掲載という。第一句集は、その作家の個性が出ている。
これは「サイダー」が象徴的な空間か?ユーミンの曲をイメージさせる。
お気に入り一句と佳作二句ぐらいで選評する。「無精卵」とか新婚なんだか?その後に子供の句があり、無精子ではなかったんだな。
『無帽』のタイトル句。青春の句か?
青柳志解樹
初めての俳人だった。
一句目からわかりやすい。
「泉辺」は「水辺」だと思うが「泉」に黄泉の国の意味があった。
農村の風景。自然詠の俳人だという。
穴井太
この俳人もお初だ。ウィキペディア情報によると石牟礼道子の俳句の師だという。
タイトルを詠んだ句か。「夕焼け」だとしたら孤独な作者と主婦たちのおしゃべりだろうか?「鶏」は比喩だろう。これは「鶏」と副題にあった。
「鳩」のタイトル句。大学での孤独な生活句。
詞書に「原爆忌」とある。「夕焼け」のタイトル句。自身を雀に喩えているのか?敗戦の青春時代だったという。
「三句放れ」と「句付け」
『俳諧の詩学』川本皓嗣から「「三句放れ」と「句付け」」。これらは連歌としてのセオリーであり、連歌が一人でやるものではないゲーム性を帯びたものだとしたら暗黙のルールとして言われてきたものだ。それは俳諧が連歌から始まったものとして、例えば発句は切れ字が必要だというのと同じなのである。川本皓嗣がなぜこれらにこだわるのかと思うと西洋詩との比較で、私なく詩を作るなど在り得なかったのだ。それが日本の短詩の特徴として無私性として短歌・俳句の世界として一人で創作するのではなく、ゲームとして多数で創作する短詩としてのルールとして「三句放れ」は同じ連想をしない、「句付け」はその繋げる方法論として「掛詞」が用いられてきたということだった。それらは西洋詩にはあまり見られない特徴であり、日本の詩歌のゲーム性の中の一面だと思うのだ。それは俳諧と、正岡子規が始めた俳句との明確な区別。例えば正岡子規だったら、芭蕉よりも蕪村の重要性は私性を取り入れることにあったと思える。だからそれをまた俳諧の世界まで戻してあえてやらなければならないということではないと思うが、けっこう伝統俳句の中にはそうした俳諧的なものが残っているのかもしれない。
NHK俳句
夏井いつきの方法は共同体の共感する発想から逆に脱ボンという個性(個人)化する発想だと思う。そもそも凡人ワードなるものがよくわからない「ふるさと」で季語の「祭」や「墓参り」、「盆」、というのはニュースの慣用句的なワードで「母」は文化的ワードなのだろう。「月」というのはよくわからないが、これは都会でも「ふるさと」を思うイメージとして孤独性にあるのかもしれない。文化的ワードでは「山」や「川」「風」と言ったものがあるのかもしれない。「水」はちょっと違うが「ふるさとの水」というような商業的イメージか?ここまでの発想法は私性の欠如として上げられるものだろうか?
次の凡人句になるとけっこう難しい。逆の発想として「ふるさとはない」という。この辺りはよくわかる。
半ボンは、ネガティブからポジティブな句にする。
脱ボンは、「満月」という比喩(象徴)を使う。「柿を食う」は松山限定だな。夏井いつきの好みにすぎない。そこに子規の句の手垢が付いているから普通は取らんだろう。
穴埋め問題。
「ふるさとはない」◯◯◯◯と◯◯◯◯◯
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「ふるさとはない」四文字と五文字。(対句形式)
↓
「4文字」の方は普段の生活の言葉かな。
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「ふるさとはない」YouTubeと五文字は季語。
↓
こんな感じか。
季語は比喩ではいけないと。難しい。