シン・短歌レッス135
王朝百首
塚本邦雄『王朝百首』から。
三夕(さんせき)の歌
川本皓嗣『日本詩歌の伝統』「秋の夕暮」より。「秋の夕暮」の寂漠感は日本人特有のものでなく、例えば『枕草子』に「秋の夕暮」は季節の素晴らしい情景に喩えられているが、それは貴族生活の中で見る「夕暮」であり、寂蓮らの僧侶の「夕暮」とは意味が違ってくるのだ。
例えばフランスの象徴派は「夕暮」を詩に歌ったのだがそれは人生の老いと有名なヴァイオイリンの音の比喩で有名なヴェルレーヌの詩は、それが人恋しさゆえの憂鬱な気分で表現されるが、それは日本的な「もののあはれ」では勿論ない。
寂蓮と西行という二人の僧侶に代表するように、その「秋の夕暮」に寂寥感が込められているのは仏教的な無常観や平安末期の「あはれ」という気持ちがあるのだ。それは『新古今集』の中でも抜きん出ている表現だから称えられたのである。「秋の夕暮」は『新古今集』以前にも『万葉集』から詠われており、それらの歌は雅なものとして、清少納言『枕草子』と近い感覚であり寂漠感はない。
『古今集』でも恋の歌として継承されているのだが秋の夕暮を歌うのはもっぱら詠み人知らずであり、専門歌人が好んで取り上げるテーマでもなかったという。それが『新古今集』になると秋の季の項に「秋の夕暮」は並べられており、注目せざる得ないのだった。中国には三国六朝時代からの「悲秋」の伝統があり『古今集』で専門歌人が詠まなかったのは、大和歌を漢詩とは区別して対抗意識を持ったからだという。
日本の漢詩文の中には「秋の夕暮」が中国の悲秋という系譜として詠まれているのは、『文選』や『白氏文集』からの影響であり、それは『源氏物語』にも「もののあはれ」として白楽天から継承した「晩秋」の余韻が出てくるのだった。
それらの秋の情景とは明らかに違う「三夕の歌」は、『新古今集』の新機構(スタイル)として例えば世捨て人の系譜として芭蕉らに受け継がれていくのである。
そして「三夕の歌」がそれまでの抒情詩と明らかに違っていたのは自問自答する中で心の寂寥感を問うからであり、それは仏教の終末感(鴨長明『方丈記』)と重なるこの世の姿なのであった。その時代は女房の文化から僧侶の隠遁の歌への変遷があったのだ。
そうした言葉の継承としての勅撰集は『新古今集』のスタイルとして、後世にモデルとされたのが「三夕の歌」なのである。それを徹底している定家の歌では「花も紅葉もなかりけり」という世界観であり、そこには恋の慕情を誘う虫の声(恋の歌)もないである。
そして正岡子規はそういう歌(月並みな歌=模倣された歌)に対して柿を喰らうのである。
『源氏物語の和歌』
六条院が完成されていよいよ光源氏の天下であり、この求婚の歌は「玉鬘」争奪選の時に詠まれた歌で、このことから柏木は「岩漏る中将」と呼ばれるようになる。柏木の悲劇はこの頃から少しづつ侵食して行ったのかもしれなかった。
菖蒲の根を引く競技のような玉鬘争奪戦なのだが、その引くを心引くと「菖蒲の音(ね)」は根の掛詞であり、泣かれは「流れ」の技巧を施しているが歌の内容は大したことではないと光源氏に評されるのだった。光源氏に返歌を促されて玉鬘が詠んだ歌は、
「いとど」はカマドウマ(便所コオロギ)だった。螢も「いとど」も菖蒲も文目(あやめ)も分別出来ないと切り返したのだ。
玉鬘に比べ品位も才能もない近江君が近づきになる弘徽殿女御である義理の姉への贈答歌であった。古歌からの引用ばかりで作者の気持ちがない(ただもしかしてこれはカットアップというバロウズらの趣向の先駆けではないのか?)。それに対して歌枕ばかりの羅列で返したという弘徽殿女御も出来た方である。
見事な贈答歌になっている。
「玉鬘十帖」の求婚端の締めくくりは、光源氏と玉鬘の贈答歌である。「篝火」は光源氏の欲望だろうか。そんな火も秋の終わりとなって煙となって消えていくのだろうか?玉鬘の和歌はウェットが効いていて上手いような。その前の光源氏の歌は、
『源氏物語』で光源氏が和歌を送ったのが一番多い順は明石君、紫の上そして玉鬘だという。それぞれの贈答歌に紫式部のストーリーテラーとしての心情が出ているような気がする。
この歌は秋の台風での見舞いに光源氏が各御殿に見舞いに行くが、形ばかりの見舞いで去っていく光源氏への気持ちを「憂き身」を「雨季の身」と詠んだ独泳であるという。
玉鬘の裳着の儀に末摘花からの贈答と共に詠んだ歌の出されなかったが揶揄する歌である。こうした諧謔の歌は『源氏物語』の一つの魅力になっているのかもしれない。
玉鬘が冷泉帝に出仕するので霜のように消えてしまう自身を詠んだ歌。光は冷泉帝というけど光源氏にも読めるな。
「秋の夕暮」の短歌
下の句が二句切れになってしまった。