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シン・短歌レッスン189




2010~2021年──「つぶやく私」と大震災・コロナ禍という文明災害

大野道夫『つぶやく現代の短歌史(1985-2021) 「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』から。

1980年代生まれの歌人

したいのに したいのに したいのに したいのに 散歩がどういうものかわからない 笹井宏之

『てんとろりん』

この歌は結構すごいのかもしれない。定型ではなかった。リフレインによって四句つづけて、「散歩がどういうものかわからない」という結句なのだが、これは作者の欲望が素直に出ているのは、作者が病気だからと知っているからなのか?多分、この歌では評価は得られないだろう。しかし、それでも歌だとする作者の強い意志を感じる。それは誰もが持つ欲望だった。

なついた猫にやるものがない 垂直の日差しがまぶたに当たって熱い 永井祐

『日本の中で楽しく暮らす』

その逆の歌が永井祐なのかもしれない。上の句と下の句はゆるやかに繋がりを見せているという「ゆるふわ短歌」。どうでもいい歌のように思えるがエモいと感じるものがあるのだろうか?

月を見つけていいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐

『日本の中で楽しく暮らす』

穂村弘は現実との関係が、そのまま読まれているというが、それが底が抜けた「歌のリアル」だという。そこに俵万智の同調という姿勢はなく、もともと他人という意識が強いのか。これが今のリアリズム短歌だと本人の弁。

これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす 大森静佳

『てのひらを燃やす』

大森静佳になるとそんな彼に物足りなさを感じてしまうのかもしれない。

はつはなの光よ蝶の飲む水にあふれかえって苦しんでいる 服部真理子

『行け広場へと』

なんか保守化しているように感じるのだが、今の短歌なのだ。

春のあめ底にとどかぬ田に降るを田螺はちかく闇を巻きをり 薮内亮輔

『海蛇と珊瑚』

藪内亮輔は言葉派というような短歌で本歌があるような気がする。例えば田螺といえば茂吉の短歌との関係。

とほき世のかりょうびんがのわたくし児田螺はぬるきみず戀ひにけり 斎藤茂吉

茂吉の田螺が明るさを歌うのに対して闇を歌う。茂吉の短歌が恋の歌なら、薮内の短歌は孤独の短歌だった。

負けたほうが死ぬじゃんけんでもあるまいし、開いたてのひらの上の蝶 平岡直子

『みじかい髪も長い髪も炎』

難解短歌だが、グーにしたら蝶は死ぬけど、じゃんけんに負けたぐらいでは死なないという歌だそうだ。負け惜しみ短歌?気持ちをそう自分に言い聞かせて現実を受け入れるということなのか?

吉川宏志はこの世代は気負いはないが、低空飛行だという。穂村弘は「低温やけど」と表する。穂村弘は言い方が上手いな。

1990年代生まれ(下の世代)

くちづけで子は生まれねば実をこぼすやうに切なき音立つるなり 安田百合絵

「本郷短歌」創刊号

完全に保守化しているな。その前の世代からそういう傾向はあったと思うが。

エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ 初谷むい

『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

考えてみればこれは穂村弘系だな。

万華鏡銃のごとき溝へ世は打ち砕かれしときの美し、と 川野芽生

『Lilith』

この虚構性と文語短歌みたいな難解短歌の傾向。

子と我と「り」の字に眠る夜のりりりるりりりあれは蟋蟀 俵万智

『オレがマリオ』

やっぱ俵万智はずば抜けて上手い。

ねぶみして引くおいびとが「信」といふ 「信」は にんべんから冷ゆるなり 坂井修一

『古酒騒乱』

坂井修一は短歌史を見つめながら現代を皮相的に読む。評論と連動しているという、『世界を読み、歌を詠む』。

口語短歌は永井祐の浮遊した現実感覚。

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 永井祐

『日本の中でたのしく暮らす』

句切れなどの定型によらない読み。

くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ 五島愉

『緑の祠』

この歌に対して小島ゆかりは最後の二字音で字余り「待つ」を入れているとする(五七五七七+ニ音)と読むが永井祐は定型を意識せずに「くもりびのすべてがここにあつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ」と読む。よくわからない。どう読んでもいいと思うが口語短歌の読みというのがあるというような。

文明災害などの主題

短歌では機会詠というのだと知った。時事詠とか社会詠ではないのか。機会はチャンスだみたいな意味合いがあるんだろうか。ドゥルーズの事件性ということかもしれない。俳句だと社会詠という社会を全面に出すのと機会という個人を全面に出す感じか。短歌の機会詠はなんかしっくりこないのだ。俳句だと社会詠はもっと読まれたほうがいいと思ってしまうのだけど。何か作為的なものを感じるのか。そういえば、

ふれてみても、つめたく、つめたい、だけ、ただ、ただ、ただ、父の、死、これ、が、これ、が、が、が、が 石井僚一

この短歌の選考で実際に父が死んでないから駄目だという意見が出たという。まだ短歌はそんなことを問題にしているのかと思う。この歌が新しいのは父の死は関係ないだろうと思うのだ。

それから実際に歌人の私性などを調査するという。それは2014年の佐村河内守の聴覚障害者のゴーストライター説があったからとされるのだが、そういうのを見抜けない選者が駄目なのであってNHK大河の音楽だからいいとかいう権威に弱いものがあると思う。作家性も単に有名だからと評価されるという権威主義的な面がある。それは選者の見る目がないということを明らかにしているのではないか?佐村河内守の音楽なんて最初から興味が無かった。騙されるほうがアホなんだと思ってしまう。つまり人は権威に弱いものなのだ。当事者性とか言われると一番悲惨な人生を送った人の歌が一番みたいな。そういう歌はまず保守的なセンチメンタリズムを示すと思ってしまう。

学生短歌で、いちいちこれは本当の話ですと言って、歌を読まねばならないという。本当にそんなことが今の世界にあるのかと思ってしまった。虚構性というものを勉強した方がいいのではないのか?

永井祐は口語短歌の最前線。斉藤斎藤は理論家、やっぱ穂村弘は正しい。今日の成果はそんなもんか。

NHK短歌

あなたへの手紙 かなたへの手紙 テーマ「ありがとう/うれしいです」
枡野浩一さんの「あなたへの手紙 かなたへの手紙」。今回は「ありがとう/うれしいです」。ゲストはお笑いコンビXXCLUBの大島育宙さん。司会は尾崎世界観さん。

大島育宙は知らなかった。双子の兄(寺井龍哉)が歌人であるという。

誕生日ありがとう
また再会のように
初めて会えますように 枡野浩一

この短歌はいいのか?自分語りしてしまう面でマイナスだと思う。生き別れの息子がいて、息子の誕生日に短歌を作ったことだが、ここでは息子が感謝しているように読めてしまう。そうではなくて息子が生まれたことへの感謝だというのが、母親不在の短歌だった。厳しいことを言うようだが、自分勝手な歌にしか思えない。枡野浩一はそういうことを言わない人だと思っていたが案外抒情派なのかもしれない。そういう面が透けて見えるからいまいちなのかもしれない。今日はしんみりしてしまった。

「ありがとう」という言葉は同調圧力を感じてしまうな。ひねくれ性格なのかもしれない。なかなか「ありがとう」を言われたこも言ったこともないのかもしれない。絶えず「ありがとう」を言いなさいと育てられた気がする。

ありがとうと言えない僕の淋しさを君は受け止め馬鹿野郎という やどかり

<テーマ>永田紅さん「いのち」(動植物、細胞、光合成、遺伝・・・)、木下龍也さん「私だけの発見」
~3月3日(月) 午後1時 締め切り~
<テーマ>横山未来子さん「たからもの」、荻原裕幸さん「散歩」
~3月17日(月) 午後1時 締め切り~

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