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あいまいな短歌の作中主体(「私」(作者)≒〈私〉(作品))

『つぶやく現代の短歌史 1985-2021―「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』

戦争、テロ、震災、コロナ禍などにみまわれた「コンビニエンス化」された社会の中で、人々はどのように、かけがえのない私、愛、高齢化、国際化、文化的性別(ジェンダー)などをうたっていったのだろうか?
1985年の俵万智の登場以降の現代の短歌を、240首の歌と130の評論への読み、700人の歌人へのアンケートをもとに、歌人にして社会学者が、年代ごと、世代ごとに読みといてゆく現代の短歌入門の書。
目次
序章 現代短歌史研究のために
1章 一九八五年以降の一九八〇年代―「ライトな私」とバブル経済
2章 一九九〇年代―「わがままな私」とバブル経済の崩壊
3章 二〇〇〇年代―「かけがえのない私」と失われた二〇年
4章 二〇一〇~二〇二一年―「つぶやく私」と大震災・コロナ禍という文明災害
補章 現代短歌のカリスマ歌人―岡井隆と馬場あき子
5章 社会調査で検証する現代の短歌と歌人
終章 「口語化」の諸局面とジェンダー、システム化、合理化の問題

俵万智以後の短歌を論評した短歌史で非常に興味深い内容だった。ただ著者のいうようには短歌の世界は進んでいないようで、口語のつぶやき化という流れは変えられないと思ってしまう。その中で保守主義的にならずにどう他者と共感していくかだと思うのだが、この辺の問題はもう少し深い議論が必要だと思う。

短歌史の流れとして俵万智以降の口語化とつぶやき(Twitter短歌をイメージしていたのかもしれない。今はXになってしまったが)という社会学調査の流れとしては学ぶべきものがあったと思ったが、途中からヴェーバーの哲学が出てきて啓蒙主義的になる。それは大震災の後の当事者性の問題ということだった。

「口語化」やネット短歌の中で私性が希薄になるのを「私」(作者)≒〈私〉(作品)という日本のあいまいなる「私」(大江健三郎のノーベル賞講演の本を思い出す)的な保守主義に傾きつつある傾向が出てきたのは大震災のあとの当事者性ということが言われたからだ。

文学の世界では虚構性は「私」ではないという(当事者性を問題にしないから他者が描ける)当たり前だと思っていた。短歌で作中主体という言葉が最初はよくわからなかったのだが、主に私小説な「私」を主体とする文学ということのようだ。しかし、その流れは寺山修司から穂村弘で過去のものだと思っていた。

啓蒙が悪いと言わないが、その弊害として保守主義に走り全体主義的な傾向になるのを恐れる。ヴェーバーの哲学はマルクスに対しての伝統主義ということでイメージも全体主義に傾いていくような。システム論について、やはりキリスト教的な伝統から抜け出せない為に一つの文化的同一性を求めていくように感じる。例えば穂村弘の短歌。

「あなたがたの心はとても邪悪です」と牧師の瞳にも素敵な五月 穂村弘

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

はキリスト教世界への疑問の投げかけと共に「素敵な五月」という日本の風土(アミニズム)を対置していると思うのだが、それはナショナリズム的な天皇制に向かうことではない。神父じゃなく牧師となっているのでプロテスタントだった。穂村弘はキリスト系大学だった。

まあ、そうは言ってもますます私性は希薄になりつつあるのだと思う。俳句は私性は消してアニミズムの方向となっているのだがその差異なのか。

ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。 穂村弘

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

アニミズムが宇宙的なネット世界へと接続されるとき、それは新たな呪文を求めるようになる。それは五七五七七の定型からリフレインによって定型を外れていく流れがあるのだ。口語化が定型からリフレインを呼び込む新たな呪文化される歌となっているのは注意すべきところかもしれない。

したいのに したいのに したいのに したいのに 散歩がどういうものかわからない 笹井宏之

この歌は結構すごいのかもしれない。定型ではなかった。リフレインによって四句つづけて(呪文のように)、「散歩がどういうものかわからない」という結句なのだが、これは作者の欲望が素直に出ているのは、作者が病気だからと知っているからなのか?多分、この歌では結社の歌会では評価は得られないだろう。しかし、それでも歌だとする作者の強い意志を感じる。それは誰もが持つ欲望だった。

例えばコンビニ化によって、パーツ化される身体、村田沙耶香『コンビニ人間』に言及しているのだが、彼女の作品に『ハコブネ』があり、それは宇宙と繋がりを示すジェンダーフリーの女性を描いていた。その呼びかけは穂村弘の短歌と通じるような気がする。

「ハコブネ」はノアの「ハコブネ」を降りることだと読んだ。西欧のキリスト教的システムを脱構築させるあり方の模索のような気がした。

とは言っても俵万智以降の短歌を論じていて、短歌史はいろいろ勉強にはなる。ただ著者のいうようには短歌の世界は進んでいないようで、口語のつぶやき化という流れは変えられないと思ってしまう。その中で保守主義的にならずにどう他者と共感していくかだと思うのだが、この辺の問題はもう少し深い議論が必要だと思う。

ネット化によって内輪化が進んでいるのだと思うが、すでにTwitterからXになったことでますます企業化によって個人の欲望が支配される構造をみてしまう。AI化もそうした流れの中にある。最近は穂村弘の批評もオヤジの小言のように感じるというような。啓蒙されることを拒む若者たちの存在は、縦の関係ではなく横の繋がりを重視する。


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